同じことならより短い時間で終わらせよう

このエントリーをはてなブックマークに追加


効率化は努力の結晶だと感じる。

高校球児が熱い試合を続ける八月、彼らの熱闘を見ることは刺激になる。

一方で、その彼らの表舞台の裏側にある"努力"の部分というのは必ずしも効果的かどうか分からず、いわゆるスポ根的側面がいまだ強いように感じる。

ある目標を立てた時、「その目標を達成するため」にすることは自己暗示的な強迫観念に自分を置くことだけが道ではなく、いかに「効率的に達成するか」がキモだ。

 

人生経験の少ない高校生が「成功」を手に入れる初期段階として規則や強迫観念によって自分を努力することに指定することは一つの手ではある。しかし、それ以降の彼らを導くのは「いかに勝つか」を考え、改良し実践し続けることだ。

 

スポーツであれば怪我をしないギリギリのところで追い込まなければいけない。

だからプロの選手で一見「手を抜いている」ように見えるところに「勝つためのキモ」が潜んでいたりもする。

 

こういう「自分が勝つためには何が必要か」を考えている時に人間は前進していると感じる。そして、うまくいく人の要件の一つであると思う。

効率化というものは願わなければ得られないものだ。

同じ時間で得るものが多いならどんどん効率化すべきだ。

努力をすることが大事なのではない。「努力をした上で何をするか」が大事。

であれば「何か」ができるようになるのをいつにするのか。

1年後やるのか、10年後やるのか。

 

今やらない人が簡単に何かを投げ出して

自分が心からいいと思えることに今後挑戦する可能性は低いだろう。

勉強というのは元来娯楽だった。それが、効率化を求めるのであれば避けては通れないほど価値のあることだと人間が気付き始めて、それを発展させる人とそれを応用して生きる人が今いる。もちろんどちらもできるけども「何かを残す」ということをしなければ

知識を得るのみでは、人生は長すぎる。

 

今日自分は何をしたか

何を残せる手はずを整えたか。

毎日己自身に問いただして、

はっきりしない答えが返ってきた日は変わろうとしなければいけない。

停滞していいほど、人生は長くない。