ルーティンをいかに効率化させるか。

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プログラミング魅力

思えばコーディングを楽しいと思えたのは自分はいつもちまちまやっている作業をコードで書くと0.01秒で全てやってしまえるという体験をしてからだ。

そして、同様に手計算ではできないようなものを一瞬で計算してしまえる計算機能力は、自分が100人以上の能力を発揮できることに気づいた機会だと思う。

もちろん扱えるものには限度があって、未だ人間が細かいところに気を使わなければならないことはごまんとあるだろうけども、知識を養えばほとんどのことがコード化できて、かつ、社会的にいいと思えるものを提供できるわけだ。

 

これを使わないわけにはいかないだろう。例えば教育に関して今までは高校教師というのは授業をしてものを教える立場にいた。でも、たまたま教員として目の前に立っている人間の教授能力が高いかどうかわからないし、一人の人間の経験値に依存して生徒の受ける授業に質が変わるのも疑問が残る。

であれば、教えるということに関してはもっと資本集約的な、つまるところ、労働によるのではなくて行われるべきではないのか。というのが最近の僕の考えていることだ。

 

教師という立場の人間がやるべきこと。

では、そういう世界が。つまりは知識的な側面に関しては効率的に学生に蓄積させることが機会的に可能になったとしたときに現在の高校教師などの役割として特に重要な部分とは何になるのかを考えてみた。それは「学生と心を通わせ、一人の良き友人である。(模範的な友人である。)」ということなのかと思い至った。今現在では、教師と生徒という関係性はある種の主従関係であるけども、知識に関して完璧というものはない。完璧ではないのにもかかわらずあたかも自らは完璧に物事を知っているかのごとく振舞うなければならないのが「聖職者」といわれるところの教師の役割であって、それはいびつだと感じる。つねに知識は新しくなる。皆不確実な基にいるのだ。それであれば、ちがうかもしれない、しかしながら暫定的にはこう言えるのではないか。ということを示すような友人としての役割を教師に課すべきではないだろうか。

 

いじめ問題に代表される学内での問題に教師が以上に叩かれることがある。

正直に言って、教師という役回りはは非常にコスパが悪い。

部活の顧問、教育、そして学内の人間関係に関してもつねに気を使わなければいけない。

しかしその全てに負担を強いるべきではなく、分業はすべきで、特に効率性を求め機会的に考えることができるのが知識的側面だと僕は考えた。システム化により教育を全ての人に与えることはこういう側面も可能にするものだと信じている。