尊敬できる人

教育に興味を持ち始めたのは、多分高校生2年生の時だと思う。受験に向けてとか他人と比較じゃなくて、知らないことを知りたいと思い始めた時だ。当時も今も、あまり目上の人間に対して尊敬することが少ない。というよりも、尊敬をすることはどこかで相手にかなわないと認めることだと思っている。簡単に他人を尊敬できない性格をしている以上、それでも尊敬できる人間に出会いたいとは常々感じていた。しかし、少なくとも高校時代の自分にとって尊敬に値する人はいなかったと思う。自分は何によって他者を尊敬するのかという基準は、おそらくこの頃うっすらと理解しつつあったのだと思う。人を尊敬するには何が必要なのか考えてみると、きっとそれは能力であったり、性格であったりと答える人がいると思うけども、「こういう人を自分は尊敬する」って言うのが少し曖昧なのが気に食わなかった。

 

能力のみに関して人を尊敬できない経験があった。自分の所属していた部活の顧問は現役時代日本トップクラスのアスリートで輝かしい結果を残していた。しかし、僕はその顧問を尊敬できなかった。彼は言っていることは頻繁に変わる。「速くなるには」のメソッドに関して、2ヶ月ごとのペースで準備運動が変わるほどだった。おそらくは新しい情報や方法を調べて積極的に練習内容に導入しようとしていたのだろう。その彼の努力は理解する。だが、度重なる変更は彼の努力への評価よりも「どうせまたやり方が変わる」という不信感・懐疑心を助長させる影響の方が強かっただろう。結局部員たちは彼のメニューを「こなす」だけで終わり、各自の自主練に重きを置いていた。

 

同じく高校生の時、当時の自分より英語・数学共に非常に堪能な友人がいた。京都大学を目指しており、相応の学力もあった。しかし、僕はその同級生を尊敬できなかった。彼は他人を試す癖があった。勉強ができるかどうかで値踏みするような質問を誰にでもしていたと思う。難しい参考書を使用していることを鼻にかけ、難しい英単語を知っていることを誇らしげに自慢していた。だから僕は、確かに彼は頭が良かったが賢いと感じたことが一度もなかった。

 

能力が尊敬に全く関係がないわけでもないが、能力が高くなくてもそれに近い経験をしたことがあった。僕の高校では定期テスト一週間前からは部活動が休止となるテスト準備期間があった。当時僕は自主的に放課後教室に残ってテストで赤点を回避したいという友人に勉強を教えていたのだが、2年生の秋にいつもはそれほど勉強しない友人が「つきっきりで教えて欲しい」といってきたことがあった。どうやら部活内でトラブルがあり部活動が無期限休止になっており、学校から「次のテストで部員全員が赤点をとらなければ反省の意を汲んで再開してもいい」と言っているらしい。なんか漫画の話みたいだけど、本当にこういうことあるんだなと思いながら教えていた。

控えめに言って彼は真面目な方ではない。どちらかといえばやんちゃな方だった。授業中私語も多かったし、部活にすべてをかけていたようにみえた。しかし、だからこそ、この時の彼の学習に対する情熱は凄まじかった。高校の下校時刻は18:30だったけども、彼は放課後僕に質問する以外は本当に机にかじりついて勉強していた。本当はいけないことだとは思うけども、19:00になっても二人で教室に隠れて残っていた。というよりも、実は彼が集中しすぎていて時間に気づかず、僕はそんな彼の集中を切らすことの方がよっぽど申し訳なく思い一緒になって時間を過ぎて残っていた。

定期テストで彼は一科目で赤点を取った。彼だけが部員の中でとってしまったようだった。同じクラスの同じ部の友人から彼が罵られているところに遭遇した。僕はその部活に一切関係がなかったけども、彼の努力に対して自分が言わなければいけなかったことがある。彼は悪くないということだ。

その一週間の彼の勉強に対する情熱は、本当に素晴らしかった。その情熱を持って、たかが定期テストで赤点を回避することができなかったのは間違いなく教えていた僕の責任だと思った。自分の教え下手をこの時ほど恨んだことはなかったけども、本当にこの時の彼の姿勢に僕は「感動」した。

 

僕は感動をしたが、尊敬まではしなかったと思う。多分その理由は「僕にとって達成することが困難」なことを彼がしていたわけではないからだと思う。だから、僕が尊敬するためには能力はやはり重要なのだと感じた。高い能力によらないことは姿勢に感動することはあっても尊敬とまではいかない。

 

そう。僕が尊敬するには少なくとも「能力と姿勢」が必要であることを知った。

しかし、それであれば部活の顧問は有していたはずだからまだ足りない。

このピースを埋めるのに僕はかなりの時間を必要としたと思う。

大学生活が過ぎる中でもそれが腑に落ちる経験がなかった。たくさんのいい人に出会ってたくさん感化されてきたけども、「尊敬」が遠かった。

 

思えば、ここまでの経験で能力を持っているのに尊敬できない人たちに決定的に足りなかったものは「自分の能力をさらに向上させよう」というのが薄い印象を受けていたからだと思う。すでに得た能力を元に他人に教えるのみで、自分自身が前に前に進んでいる印象がなかった。

 

「尊敬すること」を手に入れたのは、大学院に入って少し経った頃だと思う。一つ上の先輩に「能力・姿勢」共に優れた人がいた。この人を僕はいつしか心から尊敬するようになっていた。なぜか。彼には哲学があった。というと大袈裟かもしれないし語弊を招くかもしれない。訂正すると、彼は自分の行動基準・モチベーションの在り処を知っていた(と認識している)。

僕はよく迷い。よく悩む。その迷いとか悩みが5年続いていたりする。その悩みにひきづられて身動きが取れない時もある。そんな自分からして、その先輩はやはり悩みというものがあるであろう中で「前を向く方法」を知っていた。それがモチベーションを把握することに他ならなかった。

彼は非常に合理的だし、行動力がある。彼は自分の「考え」にかんしてぶれないのではなく、「前に進む」という点に対してぶれない。ここがすごく心地よかった。

考えに関してぶれないということはともすれば他人の意見を聞かないことにつながる。やはりそれは魅力がなくなる。だけども、前に進むというために彼は本当に他人の意見に耳を貸し、目的を達成することを優先する。ここまで割り切って行動できる人間も少ないと思ったけど僕は好きだ。

 

もちろんその人は「完璧」というわけではないだろう。というか人間完璧はありえない。その中で、そういう人間が尊敬できるのかを教えてくれたのが彼だった。たとえ完璧でなくとも力をつけて、前を向いている。その中で後ろを振り返ったり他人と比較するのではなく、前を向き続ける人。それが僕が尊敬する人の要件だと教えてくれた。そして、それが僕が目指す人間像なんだろう。

教育庁人材バンクってボランティアが面白そう。

教育関連の話には興味があるので何かしら社会奉仕をしていきたいなぁと漠然と考えて調べているうちに、東京都庁のサイトにある「教育庁人材バンク:東京都教育委員会」というボランティアに行き着いた。

実は教育関連のボランティアというのは他にもいろいろあるんだけども、

教育庁人材バンク事業では、学習指導や部活動指導などの学校教育活動を支援していただける方の情報を、東京都の公立学校に提供しています。より多くの方の御協力を得るため、大学生や講師経験者など様々な人材を広く募っています。

のように、学校教育に実際に携われるというものは少ないように感じる。都庁が運営していてマッチングができるので信頼もできる。僕みたいに学習指導に興味がある場合はもちろんそちらの案件に行けばいいけども、部活指導の手伝いもできるのはいい。大学時代というのは割とコミュニティーに参加しないと希薄な人間関係になってしまうし、興味がわけばこういうのは是非行ってみてもいいと思う。

 

一方で、このアイデアは政策的にもいいなと思う。実際問題な話、教員の負担というものは大きい。授業のみならず、部活、進路、そして問題があった際にはことの対処に当たらなくてはいけない。基本的に人に褒めてもらえるというよりは不満を言われることの方が多い仕事でもあるにもかかわらず、こういった重労働をどうにかサポートしていきたいというのは僕の今後のビジョンの一つだ。

そこで、このプログラムだ。もちろん、ボランティアに来た人に100%業務をやってもらうことは不可能だし望むべくもないけども、それでも教員側の負担が減ることは間違いない。参加する方にももちろんメリットがあると感じる。例えば教員採用試験を受ける予定の大学一年生とかまず大学入ってこれやってみるといいと思う。一年間くらいやってみて「教育の現場いいな」って思えるか、それとも「こんなに大変なのか」と感じるかどうかで自分の進路選択にダイレクトにつながるはず。

教員を目指すわけでもなくてももちろん参加する意義があると思う。通常、教員免許を持った人間以外が学校教育の現場を垣間見れる機会はそう多くない。学生の視点ではなく、ある種の指導者としてみたときの学校教育の問題点を把握できれば、それもまた自分の進路ややりたいことにつながるだろう。

 

こういう地域コミュニティーへの参画は今後どんどん増えればいいと思う。通常であれば対価としてお金を請求するものであったとしても、「プロ」としてではなく「アマチュア」として「プロ」とともに仕事をしていく機会があってもいいと思う。

もちろんプロに対して値踏みをしたりするのは良くない。デザインとかの公募制とかっていうのが問題になるように「正当な対価を要求」することはわるいことではない。しかし、本当にそれだけで社会を作ってしまえばアメリカ式の契約社会で、それは「共同体」を形成したと言えるのかとも思う。社会制度の点で米国などに見習うべき点は多くあるし、経済学を学んで「インセンティブ」を学べば利得重視と思うけども、人間の「生きがい」も含めた利得表を考えていくべきだよね。

 

そこに未来ある学生がいて、彼らの手伝いの一端を担いたいという暖かい心を決して搾取の方向ではなく、フリーライドするでもなく「より良い社会」を目指して共有していく努力を僕たちは忘れるべきじゃないと思う。自分の仕事に余力があればぜひ参加していきたい。

「一年の計は元旦」ではなく今日くらいにあるんだよ。

まもなく2015年が終わる。安倍政権のもとで法学の面でも経済学の面でも専門家の意見が通用しない法案があったけど、総じて世の中が大きく動き始めていることは確かなのだと思う。こうやって世の中が大きく動いているのとは対照的に、一個人としての生活は本当に穏やかなものであったし、より挑戦が求められるなと思った。

 

さて、年を重ねるごとに一年の節目の日である大晦日と元旦にはガキの使いくらいしか楽しみを抱かなくなってきた。正月は実家に帰ってまったりする予定の人もいるとは思うけども、「一年の計は元旦にあり」とはいうけども、その元旦を規則正しく過ごすにはそろそろ計画を練っていないと土台無理な話じゃないだろうか?そう、一年間を振り返ると同時に、来年を自分のどういう年にするのかを考えるべきなんだ。

 

そこで、年を越すまでにこの一年間やったことを書き出してみた。

たしか、今年の年始に想定したものと比べると何もできていない年だったんだねってことがわかった。

来年をそういう年にしたくはない、やはり清々しい年末を迎えたいし自分の中で確かにいい一年だったと言える大晦日にしたい。

 

  • 学ぶこと
  • 遊ぶこと
  • 仕事

という大きな3つの軸すべてで中途半端にならないためには1年間で「するべきこと」を書き連ねるんじゃなくて、まなぶこととか仕事とかもひっくるめて「したいこと」のリストを作ったのほうが楽しい。そうやっていったほうが、「やりたい」って思える。

来年は「今年の自分ができなかったことができる年」にしたい。それを目指して、今年あと2日と数時間を精一杯まず生きてみようという気になった。

求められているのは新しい価値観の形成。それは容認であり、また寛容であり、そして諦めだ。

正しいあり方を説く「べき論」は議論の場でよく見かけられる。

これは、取扱注意な代物だと思う。

つまり、「"自分は"そうすべきだと思っている」というところを乱さないことだ。

相手もそうすべきというのではなく自分の論理哲学に従えばこういう考えになる。

もしそれが、自らの行動選択に関わることであれば当然相手の哲学・論理とバトルになる。しかしながら、自分の及ばない他者の選択に対する過度な介入というのは「余計なお節介」になってしまう。

 

 

社会的に他人の害となる行為は公共の福祉の観点から妨げられるべきだけども、個人のレベルでのそれを妨げてはいけない。個人レベルでは敵意やヘイトを持つのではなくまず「相手がそういう風に思うのはなぜか」をしっかりと考えてみることが先決。

「他人に共感」すれば背後にある相手の精神的支柱が見えてくる。その支柱を仮に自分が持っていた場合にどう考えるかというところまでやらないことには相手を理解することはできない。

 

世の中には「少なくとも間違ったこと」というのが存在するが、それは学問上の定義に反することであるのがせいぜいで正しいことと間違っていることの境目なんて誰も知らない。であれば、自分とは違う意見を反芻するのは当然の行為だと思う。

もちろんこの寛容や容認を前面に押し出すと意見のない人間になってしまう。それでは「相手が共感に挑戦する」チャンスを失ってしまうことになる。だから、議論の場では大いに争っていくのは正しいと思う。その最低限のルールが相手の話を聞くことではないだろうか。

 

こうやって、相手に自分の意見を押し付けないことは難しいことだと思う。でもそれを諦めない限り、つまり自分も決して答えを持っているわけではないことを認識しない限りその人の意見は言葉の暴力だ。つまり議論の場で「一方的に相手を屈服させよう」とする意思に相違ない。それでは議論が進まないし、弁証法によりよりよい答えも期待しようがない。自分もいつもいつもできていることでないからこそ気をつけていきたい。

エリートを目指すことを恐れてはいけない。

エリートという言葉に対して、ともすれば選民主義に溢れるイメージを抽象的にでも抱くだろう。今の日本社会で「エリートは誰か?」と問えばなんと返ってくるだろうか。

その答えはもしかすると官僚・国会議員・大学教授・大企業の社員などになるかもしれない。しかし、それは職業であり、エリートという言葉はが指すモノは職業ではなく人・個人にある。

 

Noblesse Oblidgeという言葉がある。Wikiによれば

直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、一般的に財産権力社会的地位の保持には責任が伴うことを指す。

ということだ。

つまり、強いモノは・持てるモノはその力を正しく扱う義務と責任があるということ。

「職業」というものは権力を兼ねたものであって、これは力だ。

その力に対して「正しく」扱うものをエリートと呼ぶ。

 

日本という国において、体裁というものは強い影響を個人に与えると感じる。

いい職業に就き、しっかり稼いで給料をもらう。もちろんこれは個人のレベルで当然求めて差し支えないものであるし、疎外されるべきだと考えてはない。

しかし、一度自分がなんらかの大きな影響力や結果を残したとなると、話は変わってしまう。エリートを目指す義務が生じる。

 

でなければ、あたかも世の中の財産を私財であるかのように取り扱ってしまう。 

自分が社会から庇護され投資され続けてきたものすらを無視して、あたかも生まれながらの自由を拡大解釈してしまうようになる。

 

中級にいることは最高だ。エリートにならずに済むし、生きていくには十分な資金を得ることができる。今の日本にはそういった中流階級が多すぎることが問題なのだと思う。昨日、学問のすゝめに関する記事を更新したが、福沢先生の言うところの「独立」という気概にかけているのだと思う。

もちろん、この国を良くするという意味でのエリートを目指すのみではなく、社会・世界に蔓延する問題に対して真摯に向き合い自分にできることをどんな小さなことでもやれる人。自分の本業を忘れることなく、かつ社会に参画し続ける姿勢。そういったものを我慢強く伸ばしていくことは重要ではないのか感じる。

公務員目指す人は「学問のすゝめ」を読んでおいた方がいいと思うよ。

あまりにも有名すぎる本は、ともすれば読まれないこともある。

しかし、高校2年生の時に出会ったそんな本のうちの一冊はぼくの人生に大きな影響を与えた。「学問のすゝめ」だ。

 

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

 

 

読んだのは岩波だったけど、別に現代語訳でいいと思う。読みやすい方がわかりやすいしね。

冒頭は、非常に有名な

「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずいえり」

から始まる。

知っている人もいるとは思うが、この言葉から直感で感じるような美談を福澤先生箱の本で語るわけではない。むしろ「ではなぜ現実世界では貴賎の差があるのか」について語っている。それが学問によるところだというのがこの本の大意だ。

 

この本の中では学問がなぜ必要なのかを持って進めているわけだが、前半の章では特に「独立」というのがそのキーワードとなる。

 

まだ、明治4年といった政府の力と民の力に明確な差異があった時の話であるが、この本の内容は部分的にではあっても現代に通じるものがある。

よくよく読めば、今のTPPで中国に対する予防線を張るという話につながっているところもある。

 

あまり多くを語りすぎるとネタバレになると思うが、とくに公務員を目指す人には

「国を思う」

ということを忘れないためにも、どのような立場の公務員であっても国に使えるとはどういったことなのかを知るためにも是非読んでほしい。

 

もちろんこの本は過去のものだ。時代は変わったし、「一貫した哲学」は大意ではあっていても部分では異なってくる。そのような時代に先見の明があったとしても、過分に福澤先生自身も影響を受けていると感じるところが節々に見えることもある。

大意を見失わずに、かつ陶酔するのではなく彼の哲学を我がものとして読みとき、今の時代につなげることができればきっとその人は意義ある議論ができる人になるのかと思う。

自分に対しての留め書き

今年はもっと走るつもりだったし、勉強も研究も不十分だった。

だから自分が今年得た結果は真摯に受け止めるし、そのなかで頂いたチャンスには最大限感謝していこう。

 

あと6日ある。

 

しっかりやりきる。それだけ。