求められているのは新しい価値観の形成。それは容認であり、また寛容であり、そして諦めだ。

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正しいあり方を説く「べき論」は議論の場でよく見かけられる。

これは、取扱注意な代物だと思う。

つまり、「"自分は"そうすべきだと思っている」というところを乱さないことだ。

相手もそうすべきというのではなく自分の論理哲学に従えばこういう考えになる。

もしそれが、自らの行動選択に関わることであれば当然相手の哲学・論理とバトルになる。しかしながら、自分の及ばない他者の選択に対する過度な介入というのは「余計なお節介」になってしまう。

 

 

社会的に他人の害となる行為は公共の福祉の観点から妨げられるべきだけども、個人のレベルでのそれを妨げてはいけない。個人レベルでは敵意やヘイトを持つのではなくまず「相手がそういう風に思うのはなぜか」をしっかりと考えてみることが先決。

「他人に共感」すれば背後にある相手の精神的支柱が見えてくる。その支柱を仮に自分が持っていた場合にどう考えるかというところまでやらないことには相手を理解することはできない。

 

世の中には「少なくとも間違ったこと」というのが存在するが、それは学問上の定義に反することであるのがせいぜいで正しいことと間違っていることの境目なんて誰も知らない。であれば、自分とは違う意見を反芻するのは当然の行為だと思う。

もちろんこの寛容や容認を前面に押し出すと意見のない人間になってしまう。それでは「相手が共感に挑戦する」チャンスを失ってしまうことになる。だから、議論の場では大いに争っていくのは正しいと思う。その最低限のルールが相手の話を聞くことではないだろうか。

 

こうやって、相手に自分の意見を押し付けないことは難しいことだと思う。でもそれを諦めない限り、つまり自分も決して答えを持っているわけではないことを認識しない限りその人の意見は言葉の暴力だ。つまり議論の場で「一方的に相手を屈服させよう」とする意思に相違ない。それでは議論が進まないし、弁証法によりよりよい答えも期待しようがない。自分もいつもいつもできていることでないからこそ気をつけていきたい。