仮に今回の話が少年犯罪だったとして、少年法は改正されるべきか?
共感と拒絶反応
連日連夜川崎で起きた中学一年生が何者かによって殺害されたニュースが報道されている。周囲の防犯カメラなどの情報から現在未成年の3人の少年が容疑者として逮捕され取り調べを受けている。その殺害内容とされる物が残酷であり、また未成年による犯罪ということで仮に本当にこの3人が容疑者だったとして少年法が適用されるだろう。
僕自身ニュースを見ながら思ったことだが
「仮に有罪でも未成年だから罪が軽い。社会復帰のための更正を目指すプログラムを受けることになる。それでも自分たちよりも5歳も年下の子をリンチして、報道されている態度から反省やまずいことをしたという感情が本当にないのであれば、もっと他に相応な刑はないのか?」
と感じた。
こういう風に自分が考えたのはある種の共感からくる物でもあったと思う。周囲の自分より年上の人に流されてその命を失ってしまった被害者への共感だ。本来であれば年下に対して責任があるはずの者が恐怖を与える存在だったとして、僕たちは弱者に共感する者だ。
しかしながら、もう一つ自分の考えの厳選として自らの知らない恐怖因子に対する本能的な拒絶反応が働いていた気がする。そして、僕はこの拒絶反応自体がなぜ少年法があるかの理由なんじゃないかと思った。
勧善懲悪
時代劇が好きな人は勧善懲悪の好きな人だろう。すなわち、完全な悪を完全な正義が懲らしめるという構図だ。僕はこういう構図が好きだ。ヒーローにしても歴史小説にしても、主人公に共感し、主人公にうまくいってほしい。そのためには主人公に勝ってもらわないと困る。
僕は何も被害者が主人公と言いたいわけではない。
事件のそんな惨い主人公がいてたまるかと思う。
ここで僕が思う主人公はむしろ「社会」であり、僕自身だ。
ニュースを見て被害者に共感し、悪を認識してそれに対して報復があるべきだと考える
「たった数回ニュースを見て、与えられた情報に極度な偏りがある状況」
なのにも関わらずだ。
自分自身のことながらこれは恐ろしい思考だなと感じた。
もし、容疑者が殺人を犯していなかったらという話をしておいて、僕の中では既に
「彼らが容疑者だ」と決めつけている。
最初に「仮に本当にこの3人が容疑者だったとして」という前置きも本当にその可能性を考えているというよりも「そうだったときの逃げ道」にすら思える。
今回のような事件はほとんどの人にとって直視したくない物だと思う。そういう事件が起きた時に、臭い物にはふたをしてできるだけ早く「社会」から排除することを条件反射的に願ってしまう。
そうやって勧善懲悪が滞りなく完了されるのを願う。
「社会」とは何か。
しかしながら上で僕がいった「社会」とは自分が所属するごく身近なものでしかない。
もっというと「所属していると思い込んでいる大きな何か」だ。
その大きな何かは多数派によって動かされている。
つまり、少数派を仕立て上げることで自分たちの結束を強め、「自分たちの社会」を維持しようとしている。
でも、容疑者もこの社会と深く関係している構成員だ。
ニュース等で「責任」という話が上がるけども
「社会の決めたルールに則らないから排除する」
というのは責任なのだろうか?
容疑者達に社会が何を与えてきたのだろうか?
そういうことに考えがいった時、改めて少年法が必要であると思った。
というのも少年法とはあくまでも
「社会の決めたルールを叩き込む」ものなんじゃないか。
もちろん理想論的には「更正」と呼ばれる物だろうか。
でも結局、社会」における「良心」を植え付けることが目的なら叩き込むっていうことだろう。
重い罪を犯した者が、まだ社会的に十分な「教育」を施されていない者なら教育する必要がある。その上で20歳というラインをもとにまだ罪を犯すようであればそのときは
「相応の刑を過去の犯罪歴も考慮して」
求めればいいという話だと思う。
拒絶反応に突き動かされるだけの人間が法律をいじると改正どころか改悪になるだろう。容疑者、被害者、また俯瞰的な立場から見れる人間でない僕がなぜ「改正」を訴えることができるのか。できるはずがない。
最後に
「仮に本当にこの3人が容疑者だったとして」
3人には罪を償ってほしい以上に自らのおかしたことの深刻さを認識するだけの教育を受けてほしい。そして、いつの日かその罪を悔いながら被害者の子に与えた苦痛以上の幸せを世の中の人に与えられる人間になってほしい。
上村君の冥福を心から祈りつつ