教育庁人材バンクってボランティアが面白そう。

教育関連の話には興味があるので何かしら社会奉仕をしていきたいなぁと漠然と考えて調べているうちに、東京都庁のサイトにある「教育庁人材バンク:東京都教育委員会」というボランティアに行き着いた。

実は教育関連のボランティアというのは他にもいろいろあるんだけども、

教育庁人材バンク事業では、学習指導や部活動指導などの学校教育活動を支援していただける方の情報を、東京都の公立学校に提供しています。より多くの方の御協力を得るため、大学生や講師経験者など様々な人材を広く募っています。

のように、学校教育に実際に携われるというものは少ないように感じる。都庁が運営していてマッチングができるので信頼もできる。僕みたいに学習指導に興味がある場合はもちろんそちらの案件に行けばいいけども、部活指導の手伝いもできるのはいい。大学時代というのは割とコミュニティーに参加しないと希薄な人間関係になってしまうし、興味がわけばこういうのは是非行ってみてもいいと思う。

 

一方で、このアイデアは政策的にもいいなと思う。実際問題な話、教員の負担というものは大きい。授業のみならず、部活、進路、そして問題があった際にはことの対処に当たらなくてはいけない。基本的に人に褒めてもらえるというよりは不満を言われることの方が多い仕事でもあるにもかかわらず、こういった重労働をどうにかサポートしていきたいというのは僕の今後のビジョンの一つだ。

そこで、このプログラムだ。もちろん、ボランティアに来た人に100%業務をやってもらうことは不可能だし望むべくもないけども、それでも教員側の負担が減ることは間違いない。参加する方にももちろんメリットがあると感じる。例えば教員採用試験を受ける予定の大学一年生とかまず大学入ってこれやってみるといいと思う。一年間くらいやってみて「教育の現場いいな」って思えるか、それとも「こんなに大変なのか」と感じるかどうかで自分の進路選択にダイレクトにつながるはず。

教員を目指すわけでもなくてももちろん参加する意義があると思う。通常、教員免許を持った人間以外が学校教育の現場を垣間見れる機会はそう多くない。学生の視点ではなく、ある種の指導者としてみたときの学校教育の問題点を把握できれば、それもまた自分の進路ややりたいことにつながるだろう。

 

こういう地域コミュニティーへの参画は今後どんどん増えればいいと思う。通常であれば対価としてお金を請求するものであったとしても、「プロ」としてではなく「アマチュア」として「プロ」とともに仕事をしていく機会があってもいいと思う。

もちろんプロに対して値踏みをしたりするのは良くない。デザインとかの公募制とかっていうのが問題になるように「正当な対価を要求」することはわるいことではない。しかし、本当にそれだけで社会を作ってしまえばアメリカ式の契約社会で、それは「共同体」を形成したと言えるのかとも思う。社会制度の点で米国などに見習うべき点は多くあるし、経済学を学んで「インセンティブ」を学べば利得重視と思うけども、人間の「生きがい」も含めた利得表を考えていくべきだよね。

 

そこに未来ある学生がいて、彼らの手伝いの一端を担いたいという暖かい心を決して搾取の方向ではなく、フリーライドするでもなく「より良い社会」を目指して共有していく努力を僕たちは忘れるべきじゃないと思う。自分の仕事に余力があればぜひ参加していきたい。

「一年の計は元旦」ではなく今日くらいにあるんだよ。

まもなく2015年が終わる。安倍政権のもとで法学の面でも経済学の面でも専門家の意見が通用しない法案があったけど、総じて世の中が大きく動き始めていることは確かなのだと思う。こうやって世の中が大きく動いているのとは対照的に、一個人としての生活は本当に穏やかなものであったし、より挑戦が求められるなと思った。

 

さて、年を重ねるごとに一年の節目の日である大晦日と元旦にはガキの使いくらいしか楽しみを抱かなくなってきた。正月は実家に帰ってまったりする予定の人もいるとは思うけども、「一年の計は元旦にあり」とはいうけども、その元旦を規則正しく過ごすにはそろそろ計画を練っていないと土台無理な話じゃないだろうか?そう、一年間を振り返ると同時に、来年を自分のどういう年にするのかを考えるべきなんだ。

 

そこで、年を越すまでにこの一年間やったことを書き出してみた。

たしか、今年の年始に想定したものと比べると何もできていない年だったんだねってことがわかった。

来年をそういう年にしたくはない、やはり清々しい年末を迎えたいし自分の中で確かにいい一年だったと言える大晦日にしたい。

 

  • 学ぶこと
  • 遊ぶこと
  • 仕事

という大きな3つの軸すべてで中途半端にならないためには1年間で「するべきこと」を書き連ねるんじゃなくて、まなぶこととか仕事とかもひっくるめて「したいこと」のリストを作ったのほうが楽しい。そうやっていったほうが、「やりたい」って思える。

来年は「今年の自分ができなかったことができる年」にしたい。それを目指して、今年あと2日と数時間を精一杯まず生きてみようという気になった。

求められているのは新しい価値観の形成。それは容認であり、また寛容であり、そして諦めだ。

正しいあり方を説く「べき論」は議論の場でよく見かけられる。

これは、取扱注意な代物だと思う。

つまり、「"自分は"そうすべきだと思っている」というところを乱さないことだ。

相手もそうすべきというのではなく自分の論理哲学に従えばこういう考えになる。

もしそれが、自らの行動選択に関わることであれば当然相手の哲学・論理とバトルになる。しかしながら、自分の及ばない他者の選択に対する過度な介入というのは「余計なお節介」になってしまう。

 

 

社会的に他人の害となる行為は公共の福祉の観点から妨げられるべきだけども、個人のレベルでのそれを妨げてはいけない。個人レベルでは敵意やヘイトを持つのではなくまず「相手がそういう風に思うのはなぜか」をしっかりと考えてみることが先決。

「他人に共感」すれば背後にある相手の精神的支柱が見えてくる。その支柱を仮に自分が持っていた場合にどう考えるかというところまでやらないことには相手を理解することはできない。

 

世の中には「少なくとも間違ったこと」というのが存在するが、それは学問上の定義に反することであるのがせいぜいで正しいことと間違っていることの境目なんて誰も知らない。であれば、自分とは違う意見を反芻するのは当然の行為だと思う。

もちろんこの寛容や容認を前面に押し出すと意見のない人間になってしまう。それでは「相手が共感に挑戦する」チャンスを失ってしまうことになる。だから、議論の場では大いに争っていくのは正しいと思う。その最低限のルールが相手の話を聞くことではないだろうか。

 

こうやって、相手に自分の意見を押し付けないことは難しいことだと思う。でもそれを諦めない限り、つまり自分も決して答えを持っているわけではないことを認識しない限りその人の意見は言葉の暴力だ。つまり議論の場で「一方的に相手を屈服させよう」とする意思に相違ない。それでは議論が進まないし、弁証法によりよりよい答えも期待しようがない。自分もいつもいつもできていることでないからこそ気をつけていきたい。

エリートを目指すことを恐れてはいけない。

エリートという言葉に対して、ともすれば選民主義に溢れるイメージを抽象的にでも抱くだろう。今の日本社会で「エリートは誰か?」と問えばなんと返ってくるだろうか。

その答えはもしかすると官僚・国会議員・大学教授・大企業の社員などになるかもしれない。しかし、それは職業であり、エリートという言葉はが指すモノは職業ではなく人・個人にある。

 

Noblesse Oblidgeという言葉がある。Wikiによれば

直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、一般的に財産権力社会的地位の保持には責任が伴うことを指す。

ということだ。

つまり、強いモノは・持てるモノはその力を正しく扱う義務と責任があるということ。

「職業」というものは権力を兼ねたものであって、これは力だ。

その力に対して「正しく」扱うものをエリートと呼ぶ。

 

日本という国において、体裁というものは強い影響を個人に与えると感じる。

いい職業に就き、しっかり稼いで給料をもらう。もちろんこれは個人のレベルで当然求めて差し支えないものであるし、疎外されるべきだと考えてはない。

しかし、一度自分がなんらかの大きな影響力や結果を残したとなると、話は変わってしまう。エリートを目指す義務が生じる。

 

でなければ、あたかも世の中の財産を私財であるかのように取り扱ってしまう。 

自分が社会から庇護され投資され続けてきたものすらを無視して、あたかも生まれながらの自由を拡大解釈してしまうようになる。

 

中級にいることは最高だ。エリートにならずに済むし、生きていくには十分な資金を得ることができる。今の日本にはそういった中流階級が多すぎることが問題なのだと思う。昨日、学問のすゝめに関する記事を更新したが、福沢先生の言うところの「独立」という気概にかけているのだと思う。

もちろん、この国を良くするという意味でのエリートを目指すのみではなく、社会・世界に蔓延する問題に対して真摯に向き合い自分にできることをどんな小さなことでもやれる人。自分の本業を忘れることなく、かつ社会に参画し続ける姿勢。そういったものを我慢強く伸ばしていくことは重要ではないのか感じる。

公務員目指す人は「学問のすゝめ」を読んでおいた方がいいと思うよ。

あまりにも有名すぎる本は、ともすれば読まれないこともある。

しかし、高校2年生の時に出会ったそんな本のうちの一冊はぼくの人生に大きな影響を与えた。「学問のすゝめ」だ。

 

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

 

 

読んだのは岩波だったけど、別に現代語訳でいいと思う。読みやすい方がわかりやすいしね。

冒頭は、非常に有名な

「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずいえり」

から始まる。

知っている人もいるとは思うが、この言葉から直感で感じるような美談を福澤先生箱の本で語るわけではない。むしろ「ではなぜ現実世界では貴賎の差があるのか」について語っている。それが学問によるところだというのがこの本の大意だ。

 

この本の中では学問がなぜ必要なのかを持って進めているわけだが、前半の章では特に「独立」というのがそのキーワードとなる。

 

まだ、明治4年といった政府の力と民の力に明確な差異があった時の話であるが、この本の内容は部分的にではあっても現代に通じるものがある。

よくよく読めば、今のTPPで中国に対する予防線を張るという話につながっているところもある。

 

あまり多くを語りすぎるとネタバレになると思うが、とくに公務員を目指す人には

「国を思う」

ということを忘れないためにも、どのような立場の公務員であっても国に使えるとはどういったことなのかを知るためにも是非読んでほしい。

 

もちろんこの本は過去のものだ。時代は変わったし、「一貫した哲学」は大意ではあっていても部分では異なってくる。そのような時代に先見の明があったとしても、過分に福澤先生自身も影響を受けていると感じるところが節々に見えることもある。

大意を見失わずに、かつ陶酔するのではなく彼の哲学を我がものとして読みとき、今の時代につなげることができればきっとその人は意義ある議論ができる人になるのかと思う。

自分に対しての留め書き

今年はもっと走るつもりだったし、勉強も研究も不十分だった。

だから自分が今年得た結果は真摯に受け止めるし、そのなかで頂いたチャンスには最大限感謝していこう。

 

あと6日ある。

 

しっかりやりきる。それだけ。

時間をかけてでも、疑問に対しては答えを用意すべき

友人とそれ以外の大きな差は「駆け引きをするか」どうかだと思う。友人といるときは適当なことも言うし、真面目なことも言う。でも結局相手とのいる時間が楽しいから多少のすれ違いなんかは全く気にし無いし、それでいいと思える。

一方で、友人では無い知り合い、特に深く仲のいいわけでも無い人間とは意識せずとも駆け引きをしてしまっていると感じる。それは、相手と仲良くなるためなのかと思うとそうでもなくて、ある種の自分を作って相手と関わっている。自分と相手以外に「立ち位置」とか「役割」と言ったものを備え付けた上で会話をしている。

そういう駆け引き、苦手では無い。むしろ得意な方なんだと思う。だけど、できるだけやりたく無い。そういうことしているときの自分自身が嫌いになってしまいそうになるからだ。こういうところが不器用な人は多分会社とかではのし上がっていけ無いんだろうなと思う。いや、のし上がっていくのに本心だけで出来るならそれは天才だと思う。

 

人を心から頼るときって本当に心地がいいと思うんだけども、利害関係の延長で相手を頼ってしまうとき自分は果たして相手に何を与えることができるのかと思う。だから、駆け引きをしていく中で自分が相手に与えられるもの(立場)を提示しているのかなと感じる。

信頼関係の構築は、こういうところ以外でなされるべきだ。利害関係とか、そういう雑音が入ると心からまかせることも、心から握手することもできなくなってしまう。これに時間が必要というわけでは無い。会ったその日に本音を言えるときもあれば、6年たっても建前で生き続けているときもある。この差はなんなんだろうか?

 

それが、合う合わないなのかもしれない。人間性もそうだし、自分の心がオープンになっているタイミングという意味でもそう。多分そういうときに出会った気の合う人には本音で話し始めるおかげでいい人間関係もできるけど、自分が必ずしも心を開いていないときに無駄に人間関係広げようとしてもあまりうまくいかないのかなと思う。

 

そういう意味では、自分の心をできるだけ開けれるようにしなくちゃいけない。日々頭の中で巻き起こる「疑問」とか「理想と現実」に対して、答えを用意しなくてはいけない。散歩をしながら心ここに在らずと言った瞬間は何度もあった。

暫定的なものでいいのだと思う。一時的にでも、今の自分を安定させ、いい方向に向かわせる何かを常に用意してあげること。「こういう状況だったらいいのに」とおもうのであれば「その状況を作ろう」とか「本当にそれが自分の願いなのか」ということを、簡単に無下にせずしっかり時間を使って吟味して、その上で答えを用意する。

 

そうしないと、意見のない人間になってしまう。意見をしっかり持って、例え相手と対立したとしても自分の中の答えを一つしっかり掲示していく。そういうことができなければ、無駄な言葉遊びをする。

 

こういうところ、なおさないといけないなと思う。