教育が投資だとしても京大卒が専業主婦になることは社会的に無駄ではない。②
再考
おととい以下の記事を書いた。それに対して、元ブログの方からはてブをもらうと同時に自分の論に問題があることを痛感したため部分的に考え直していきたいところが出てきた。
断っておくが、僕はせらまよさんの以下の記事
を読んだ上でなお考え続けている。これはあくまでも誰かを擁護したいとかそういう意図があるのでもなく、単純に自分の中に浮かんだ疑問に関して深掘りしていきたい。それだけの話。
さて、「京大卒・専業主婦」せらまよさんから先の記事にはてブをいただいた。
実は今までいただいたこと零細ブログ運営者なので、純粋に感謝した。
それはさておき、そのコメントに
子供を産まなければ意味がないというプレッシャーにつながってしまった
とあり、「しまった」と思った。他の人のコメントでも
この手の論調、じゃあ子供産まない専業主婦の価値は低いの?って思ってしまう。子供って望めば必ず得られるものではないのに。
子供の存在を自明としすぎる論調
生む機械が高性能になってよかったね、みたいな?
とあり、自分があまりにも「子供と親の関係性の中に価値が存在する」こと、そして「子供がいて当然」であるかのような文章を書いていたことに気づいた。
これは、一般論を行う上で自分の意図しないところであったので、今一度その点を考え直したい。といっても自分が一度書いた文章を修正すると何かに逃げている気になるのでこうやって新たに記事を作成することにした。
なぜ「子供の存在」を仮定したのか
一般論に入る前に個人的視点の上でなぜ子供の仮定をしてしまったのかについて考えてみたい。前回の文章を書いた時点で、途中までは確かに僕は一般論の話をしているつもりであった。しかし、まとめる段階において個人的感情を優先させてしまったことが最大の過ちだったと思う。
僕には小さいとき父がいなかった。この実体験が自分の価値観に強烈に影響している。
それが故に、自分は「親と子の時間」について人一倍敏感であるし、自分の人生の時間はできるだけ長く子供と過ごすことに使いたいと考えている。それを他者に押し付けてしまった。それが最大の過ちだ。
ようは、ぼくはせらまよさんの立場に立って考えたのではなく、いつのまにか「自分が専業主婦であるならば」ということを考えていた。
子供がいない専業主婦の価値
ここにきて考えるべきは子供がいない専業主婦の価値だろう。ぼくはこの点を完全に無視した議論をした。確かに自分は「最大のリターン」として子供に対する影響というものを掲げ続ける。しかし、子供がいなくとも「良き友人である」ことが社会的価値だと付け加えたい。つまりは周囲の人間関係の中で、ママ友や親族の中で自分が「教養ある一個人」であることが他の人の模範となるし、そういう存在に他の家族がアクセスできることでその人の教養が「伝染」していく。
だから前回主張した
高等教育を耐え切った時点で投資としての教育の目的はほぼ達成されている
という持論は変わらない。
その他の意見に対する反応
さて、正直ここまででいいのだけれども他のコメントで気になるものがあったので一つずつ考えていきたい。
①専業主婦を強く勧めているわけではない
生む機械が高性能になってよかったね、みたいな?無駄で結構と私は思うけど。
このコメントに対して感じたことは、確かにぼくは子供の存在を仮定してしまったが、女性に限って家事育児に専念すべきと言ったつもりは全くないということだ。あくまでも、「専業主婦であるなら」というところに自分が「子供がいる」という強い仮定を置いしまったのが発端であることは認めるが、ややて厳しい物言いだなと感じた。
また、無駄で結構だとはぼくも思う。ただ、本当に無駄なのかどうかという点に関して考える余裕があってもいいと思い記事を書いた。
②"のみ"というのは強すぎではないか
学問史上主義者なので「次世代への投資」は「次世代を担う研究者の発生」のみが本来の意味でのリターンだと思っている。
おそらくコメントを読むにぼく同様に研究者なんだと勝手に感じた。これに関して、研究者の発生が次世代への投資の第一目的であるならば研究者にならなければ他の人は「不良債権」になるということだろうか。という印象を受けた。
もちろん「学問至上主義者」であるらしいのでそうだろうけど必ずしも新しい知見が「研究室」の中や「研究者」の肩書を持つものからしか生まれたというわけではないことをどう説明するのだろうか。
③自分が幸せなら他者評価は関係ない?
コメントでも何人かの方が言及していたし、今回の話への一般的なメッセージとして「自分が幸せかどうかが大事」という人が多くいた。だから他者評価なんか気にするなと。
これは無理でしょ。
というのも、別に他者評価が問題なのではなく、
「他者評価が間違っていることを自分が理解し納得できているかどうか」
が自分の幸福に大きく影響するわけで、それを
「他人が何言っても関係ないよ」
というのとは全く別次元の話だからだ。
つまりは他人がたとえ「お前は貢献していない」といわれたときに
「お前の意見なんかクソくらえ」と無視するのと
「自分は明らかに貢献している箇所があるのにそれを見落としているのはあなたの方」
と思うのでは天地雲泥の差があるということ。
だから、他者批判を受けたときに「考え直す」こと、「それをどう自分に説明するのか」ということを行うのは非常に有意義なことだし、それを
「自分が幸せならいいんだよ」
という甘い言葉で思考停止に導くのは、たとえ共感や慰めであっても疑問が残る対応だと感じる。