教育が投資だとしても京大卒が専業主婦になることは社会的に無駄ではない。

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記事を書こうとした背景

「京大出て専業主婦なんてもったいない」(略)というブログがこの数日Twitter上を騒がせている。

seramayo.hatenablog.com

 

本文自体に関しては、いわゆる愚痴の部類で忍野メメが「いいことでもあったのかい」とでもいいそうな文章だ。おそらく想定以上の反響であったことだと思う。

 

それに対して、東大文学部卒の女性のブログが更新された。

anond.hatelabo.jp

 

つまり、「承認欲求・他者評価によらず自分の人生を謳歌しろ。自分が真にやりたいことに時間を割くべき。」ということを言っていて、その上でタイトルを見返すと「もったいない」ものは謳歌していないこと。という風に読んで取れる。これは京大卒の方への同意文だろう。彼女がもったいなくはないことを行っていることを述べている印象だ。

 

さて、それに対して以下のブログを見かけたのが今日だった。

 

anond.hatelabo.jp

印象に残ったところを引用させてもらう。

教育を何だと思ってんの?

次世代への投資だぞ?

なんで国は回収出来もしない遊びでやってくる大学生のためにお金使わなきゃいけないの?

ボランティアじゃねーんだぞ?

 

役に立たない学問のために税金使ってんの?

おかしいだろ。

追記の部分に関して

自分は、専業主婦無駄だってうつもりは無いよ。

(本文にも専業主婦への投資が失敗だなんて書いてないのは読んでもらえればわかると思う)

専業主婦だっていろいろあるしさ。大家族を切り盛りするにはそれは専業主婦としての能力必要だろうし。

家庭として構成員家事育児を担って他の構成員仕事に集中するという役割分業はメリットも大きいだろうと思う。

自分は、労働する親の姿を見せることこそが最高の教育だと思っているけど)

でも、専業主婦しろ社会人しろ研究者しろ自営業しろ

国や親に教育を受けさせてもらった恩恵に対しては、感謝の念があってしかるべきだと思うし、

与えられた恩恵は返すように努めるべきだと思っている。

 

教育を受けられたことに感謝しながら、社会に貢献するように努めるのって、そんなにおかしいか

そんなに社会主義的か?ふつうのコトだろ、受けた恩を返すのは。

その自覚がないなら、大学なんて行くなよマジで

 

まぁでも、

あのえんとりーで自分いちばんムカついたのは、

京大カード

ただの中身の無いマウンティングカードとして使われたことなんだけどね。

かなり多く引用してしまったが、できるだけ元の書いた人の意見が見えるようにしておいた方がいいと思った。できれば元ブログを一度確認してもらえると幸いだが、僕が読んだ上では「社会貢献」「自分に投資してくれたことへの感謝」っていうあたりがキーワードのように感じた。

 

ここにきて、僕は少し自分の思うことをまとめておこうかなと感じた。

 

教育は投資か?

さて、まずこの問いから始めよう。

国家が費用を割いてお金を使うとき、それは投資なのだろうか?必ずしもそうとは言えないだろう。今の日本でもっとも支出割合が多い項目である社会保障の恩恵をもっとも受けているのは高齢者だ。言い方は悪くなるけども、未来への投資とは言えないと思う。これらはセーフティーネットとしての側面が強く、その支出により国が何かのリターンを要求するものとは言えない。あえて言うのであれば「国民の効用」をあげることだろう。

では教育はどうだろうか? 投資だろうか?まず義務教育までにおいてはやはり投資というよりもセーフティーネット的な側面が強いと思う。もしも投資であるならば以前この国において飛び級制度が導入されていないことに疑問がすぐ湧く。というと高等教育からが問題になるだろう。先のブログの「大学に行けて当たり前だと思ってるんじゃないか」というようなことを言っている。高等教育は投資的な側面が強くなるのだろうか。現状、奨学金というなの学生ローン問題が関わってくるのもこのあたりが問題だからだ。

「大学は学びたくなければ行かなくてもいい」というアカデミックさと

「学力のシグナルとして学歴として利用する」というインセンティブのせめぎ合いだ。

個人的な価値観によれば高校生の段階で「大学に行った方がシグナルが働く」という考えを持つ学生が多いだろう。だから借金してでも大学に行く。一方で、遊んでばかりいる学生を見て「何のために大学に来たんだ勉強しろ」という人もいる。ここで個人的合理性と社会合理性が矛盾するという経済学の考えが働いてくることがわかる。

 

ここで問題なのは、あくまでも大学・国立とはいっても教育にはセーフティーネットとしての役割があるということだ。才能とやる気に恵まれたものが、望めば教育を受ける機会が与えられている。そういうことだ。

 

教育は必ずしも投資ではない。でも、確かに

教育を何だと思ってんの?

次世代への投資だぞ?

という言葉には一理ある。これを見過ごすこともできない。では、投資としての教育を政府が行っているとして、その目指すべきところはどうか。そのとき専業主婦とはどういう立ち位置に来るのか。僕はそれを考えてみたくなった。

何がリターンか?

あくまでもセーフティーネットを無視したうえで(というかその側面を除いたうえで)、投資のリターンとしていくつか候補があるが、僕が思いつく区分としては

  • 研究成果  
  • GDP  
  • 文明

がある。それぞれについて考えてみたい。

 

Return 1 : 研究成果

我が国の研究業績を上げるために教育を投資として行っているとする。するとこれは研究分野における国際競争力の向上を意図していることになるのだろう。これが「次世代への投資」というには「日本にはいい研究者が多いために、そのブレインが次代への財産となる。」つまり、高等教育を行える環境を存続させることがリターンとなる。

しかし、それに対して国が本腰とは思えない。博士課程進学者の一部には学振と呼ばれる特別研究員のポジションが与えられるが、20%未満の在学者しかその恩恵には預かれない。もしも高度な研究をできる環境を与えたいのであれば、大学進学への投資以上にこの博士課程進学に対する投資を増やせばいいことになる。しかしそれをやっていない。これは、より重要なのはより多くの学生が「大学における高等教育にアクセスすること」だと国が想定していることの裏返しだろう。

要はより高等な学問ができる国にしたいなら大学生の数を減らして院生により米国に並ぶ環境(研究者としてのポジションを与え、給与も払う)ことのほうがいいわけ。でもそんなこと言うと批判がくるだろう。

「より多くの人が教育を受けるべきだ」ってね。だから、この投資先はあくまでも国の分配先の一部であって最優先事項ではない。

 

Return 2: GDP

Gross Domestic Product, 要は国の国富をはかる指標だ。これを大きくすれば「経済的に」豊かな国ということになる。教育はそれに対する投資たり得るだろうか?

 

国が予算を割いて追加的にある個人に教育を与えるケースを考える。

それは、その教育を受けなければ

「歴史的発見をし産業を革命するような人材」

「起業家として社会を牽引する人材」

だろうか?その確率は限りなく低いだろう。もしそのようながくせいであれば、すでに給付の奨学金などを手に入れている可能性のほうが高い。スターを育てない投資であれば昨今の世の中、むしろ高卒のほうが使える人材になるだろう。

簿記などの資格も、大学の時なんとなく取ろうとするより働きながら必要に迫られてとるほうが「社会的価値が高い」といえるのではないか?

教育に投資をしてもGDPに大きな影響はあるのか。もちろん、いまの教育を全てやめてしまえば影響はあるだろうが、その中に入った人はGDPのためにやれることをやるべきなのか。違うだろう。

 

Return 3: 文明

Last but not leastという言葉が好きだ。最後に持ってきたこれこそが僕の現在持つ答え。教育が投資であるとすれば、それは文明進歩のためのものである。

文明というとなんかすごく抽象的でふわふわしたものに思える。が、ここではあえてかなり限定した言葉で文明を近似したい。教養だ。

より高い教養を持つ人々を育てること。これが教育投資のリターンではないかと思う。

これの集合体として、文明の進歩があるというイメージだ。

目には見えないが、しかし明らかに50年前と今では教育の質に変化がある。

コンピュータ、プログラミングスキルなどは一昔前では存在すらしなかった。

現在ではそれが効率化のために活用されているが、人口言語として自然言語を再認識するのはいままでにない教養の引き上げになる。自然言語で理解できなかったものが、人工言語になれば理解できてくることもあるだろう。

子供の教育水準に驚くほど影響を与えるものは何と言っても「親の学歴」といえるだろう。より正しくは「親の教養水準」だ。幼い頃に最も影響を受ける存在であるところのおやの教養水準が低いなかで進学し、東京に出て「貴族の生まれかよ」っていう人とめぐり合う。そのギャップは東大・京大の門を叩いた人なら味わうところだろう。

親の教養水準が高いと「子供の教養水準が上がる」ことがより期待できる。僕はここに最大のリターンが存在するのではないかと考えている。そして、これこそが教育の投資の本義だと暫定的に考えている。

 

専業主婦は無駄か?

もうお分かりだろうが、無駄どころか大正解である。

京大出身の母を持った子供は、親から学ぶことも多ければ専業主婦であるからこそ学ぶ機会も多い。子供がより教養ある人間になる可能性が高くなる。(あくまでもリターンは総和なのでもちろん個別にはブレがあってもいい。)

 

もし、残念なことがあるとすれば、母親が「京大卒のくせに専業主婦なんかして…」という心ない言葉に「無駄な」コンプレックスを感じて、それが共感として子供に伝染してしまうことにある。

 

それよりも、「音楽の話をするときに細部に生きた知識を与えてくれる母」の存在を、子供が30歳になるときにどれほど感謝しその教養水準の高さに責任感が芽生えるか、僕は簡単に想像できる。

 

だから、主張したい。

高等教育を耐え切った時点で、教育の目指す投資のリターンはほぼ達成されている。

と。

 

この国の人は責任を問うが、僕はそれでは文明は前に進まないと感じている。

実行していくことは必要だし、求められている。しかしその形は多彩。

 

大事なことは、すべての人が愛情を持って子供を育てる社会。

そんな文明を心待ちにしている。

 

 追記:

taithon.hatenablog.com