エリートを目指すことを恐れてはいけない。
エリートという言葉に対して、ともすれば選民主義に溢れるイメージを抽象的にでも抱くだろう。今の日本社会で「エリートは誰か?」と問えばなんと返ってくるだろうか。
その答えはもしかすると官僚・国会議員・大学教授・大企業の社員などになるかもしれない。しかし、それは職業であり、エリートという言葉はが指すモノは職業ではなく人・個人にある。
Noblesse Oblidgeという言葉がある。Wikiによれば
ということだ。
つまり、強いモノは・持てるモノはその力を正しく扱う義務と責任があるということ。
「職業」というものは権力を兼ねたものであって、これは力だ。
その力に対して「正しく」扱うものをエリートと呼ぶ。
日本という国において、体裁というものは強い影響を個人に与えると感じる。
いい職業に就き、しっかり稼いで給料をもらう。もちろんこれは個人のレベルで当然求めて差し支えないものであるし、疎外されるべきだと考えてはない。
しかし、一度自分がなんらかの大きな影響力や結果を残したとなると、話は変わってしまう。エリートを目指す義務が生じる。
でなければ、あたかも世の中の財産を私財であるかのように取り扱ってしまう。
自分が社会から庇護され投資され続けてきたものすらを無視して、あたかも生まれながらの自由を拡大解釈してしまうようになる。
中級にいることは最高だ。エリートにならずに済むし、生きていくには十分な資金を得ることができる。今の日本にはそういった中流階級が多すぎることが問題なのだと思う。昨日、学問のすゝめに関する記事を更新したが、福沢先生の言うところの「独立」という気概にかけているのだと思う。
もちろん、この国を良くするという意味でのエリートを目指すのみではなく、社会・世界に蔓延する問題に対して真摯に向き合い自分にできることをどんな小さなことでもやれる人。自分の本業を忘れることなく、かつ社会に参画し続ける姿勢。そういったものを我慢強く伸ばしていくことは重要ではないのか感じる。