民主主義と教育 2章

このエントリーをはてなブックマークに追加


2章 社会の機能としての教育

 

p.27 l.9

環境は、ある生物に特有の活動を助長したり、妨害したり、刺激したり、抑制したりする諸条件から成り立っているのである。

 ここにきて環境がどういう位置づけなのかが分かる。この言葉の上では「学校とは作られた社会」であることが望まれるかと思う。つまり、「社会に本格的に参加するために必要なことを学ぶ場」であって、それは必ずしも英語・数学・国語などを学ぶことと等価ではないということだ。もちろん文明社会においてはその社会が高度に複雑化して、そのような「基礎教養」を身につけることは「社会を理解すること」には役立つかもしれないが、「社会に積極的に参加しようとする」意思にプラスに働くかは疑問だ。むしろ学問に没頭する余りに現実問題に目を背ける事は決して否めない。

 

p.30 l.5

(馬車をひく馬は)自分が行っている奉仕には興味を持たない。彼は共同の活動の仲間ではないのである。もしも彼が共同者だとなるのだとすれば、彼は、その連帯の活動に従事している時に、その活動の完成について、他のもと達と同様の興味を持っているはずである。彼は、他の物が持っている観念や情緒を共有するはずなのである。

資本家に買いたたかれる労働者。しかしながらここでダメなのは「労働者」ではなく「資本家」の方の気がする。なぜなら自分たちの社会に「労働者を取り込むことに失敗」しているからだ。これはもちろん教育もそうだが、彼らの社会の存在目的自体が労働者と合ってなく、また「合わなくても安く働いてくれるならいい」ということからくるものな気がしてならない。 僕個人はこのような資本家が嫌いだ。

 

p.31 l.13

個人をその共同生活の参加者すなわち仲間にして、彼がその成功を自分の成功と感じ、その失敗を自分の失敗と感ずるようにすることが、その完成段階なのである。

先程と真逆の状況だが、ある種の洗脳ともいえる状況だとかんじる。そのようになった個人は「その社会」が過剰に自分と重なりすぎてはいないのだろうか?社会の成功をともに喜ぶことはいいことだと思うけども、えてして「排他的」な個人になってしまわないのだろうか?ここらへんで「社会人としての成長」と「一個人としての成長」について悩む。

 

p.35 l.5

例えば、プラス記号は、ある数の下に別の数を書いて、それらの数を加算するという動作を行わせる刺激となるかもしれないけれども 、その動作を行っている人間が、もし自分の行うことの意味を自覚しないならば、彼は、自動機械とほとんど同じように働くに過ぎないことになるだろう。

具体例ですね。

 

p.36 l.13

われわれは、昔の人々は生来愚鈍であったとし、われわれの側には生まれつきの優れた知能があるとする事によって、そのことを説明しがちである。けれども、それを説明する理由は、彼らの精神を集中させていた、ということなのである。

「条件付き」いう立場でいえば「知識の蓄積」が過去と現在では異なる。過去の人々が持っている知識の上で「向けるべき関心の対象」と現在の持っている関心の対象はもちろんちがうだろう。そのことに注意すればもちろん生来の差などあるはずがない。

ふと思いついたことではあるけれども、「教育」はあくまでも社会への参画が目的であるのなら「社会の発展」はどうするのだろうかということだ。社会も生命と捉えれば「社会自身が教育され、更新されて発展する」ことになるかと思うが、その際の指導者は誰なのか?その指導者はどのように教育されるべきなのか?ここらへんで社会の構成員になるだけではなく「社会を発展させる多様性を持つ人」の存在の重要性を感じる。このような人は複数の社会の間を結ぶことができる人のような気がする(直感)。いままでの社会をLocalな社会とすれば、このような人こそ今求められている「Global」な社会で生きていける人で決して語学が堪能でコミュ力が高いだけの人間ではないと思う。

 

p.42 l.9

一つの近代社会は、多少緩く結びつけられた多数の社会なのである。

人間失格の主人公が言った「世間とは君のことじゃないか」という文章を瞬間的に思い出した。もちろん社会の中に社会があることなんてもはや当然のことのように受け入れられると思うけども、そこに注意して、「どの社会を選ぶか」というのは大事なことのような気がする。なぜなら「つきあいたくない個人や団体と無理につきあうことによって成り立つ社会」に僕は価値を感じないからだ。デューイの論がこのあとどのように展開していくかは楽しみではあるけど、この時点での自分の考えとしては「自分にとって価値のあると思える社会の存続には尽力すべきで、そうでない物に協力する必要などない」ということ。