民主主義と教育 1章

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民主主義と教育〈上〉 (岩波文庫)

民主主義と教育〈上〉 (岩波文庫)

 

 

前から気になっていたデューイを読み始めた。教育学に関して学んだことは一度もないが、自分も教育の恩恵を受けてきて、その重要性を感じるため興味の対象となっている。

まずは1章のなかで心の琴線に触れた箇所、思うところをまとめておく。

 

1章 生命に必要な物としての教育

p.12 l.3

生活とは、教育の働きかけを通して、自己を更新していく過程なのである。

教育の位置づけが非常に分かりやすい一文ではないだろうか?

生物は新たな出来事に対して教育され、それをもって自らを刷新する。

 

p.14 l.4

積極的な関心を抱かせなければならない

関心がなければ参加,共感しない。あくまでも教育とは主体的な個人がいて初めて成り立つ物であり、いかにしてその主体的な個人を生み出すのかが鍵のよう。

 

p.15 l.16

社会は伝達によって、通信によって存続し続けるばかりでなく、伝達の中に通信の中に存在するといってよいだろう。

人と人のコミュニケーションが社会の構成要素のように思えるが、コミュニケーションの中に社会が存在するという考え。後に出てくるが、社会の中に様々な社会がある。個人間の伝達や通信が最も小さい単位での社会なのだろう。

 

p.17 l.4

いかなる社会集団においても非常に多くの人間関係が今なお機械の場合と同じような段階にある。人々は自分が欲する結果を得るために互いに他を利用しあうが、その時自分が利用する人々の情緒的および知的性向や同意を顧慮しはしない。そのような利用は、肉体的優越、または地位や熟練や技術的能力の優越、および機械的な意思財政上の道具の支配をものがたっている。親と子、教師と生徒、雇用者と被雇用者、治者と被治者の関係がこのような水準にとどまっている限り、彼らのそれぞれの活動が相互にどんなに密接に接触しようとも,彼らは真の社会集団を形成しはしないのである。命令をくだしたり受けたりすることは行動や結果に変化を及ぼすけれども、そのことはひとりでに目的の共有や関心の共有をもたらしはしないのである。

この部分は現在の雇用関係を特に思わされる。労働の対価としての賃金があるが、労働者が「賃金」の為に労働する限りこれは機械的な社会ということになるだろう。「共有」というのが一つのキーワードで、社会的な関係というのは同じ目標を共有することと言えるだろう。教育の現場で学生が点数のための学習をする限り、教育とはいえないのかも。

 

p.20 l.8

子どもたちに対するわれわれの主な務めは彼らを共同生活に参加できるようにしてやることなのであるから、われわれは、そうすることができるようになる能力を彼らが形成しつつあるかどうかを考えざるおえないのである。

あくまでも共同生活への参画を教育の大目標としているのが見える文章だ。

一番最初の引用からもそうだが、環境と相まってその外生的な刺激から教育され更新される事が重要なので、「如何にして自分たちの社会に染め上げるか」ということだろう。ここら辺からやや懐疑的な目線で読むことになる。つまり、現在においては教育の受容者自体が社会を選択する段階にあるのではないかという考えが浮かんだ。もしかすると論点からはなれてそうな気もするが、少し頭にとどめながら読み進めたい。

 

p.22 l.17

制度的な教授の教材には、それが生活経験の主題からは切り離されて、単に学校での主題にすぎなくなってしまう、という危険が常につきまとう。持続的な社会的関心ごとが視野から見失われてしまうことになりやすい。社会生活の構造の中へ持ちこまないで、主として記号で表された専門的知識の状態にとどまっている教材が、学校において目立ったものとなるのである。このようにして、我々は教育というものの通俗的な概念に達する。すなわち,それは教育の社会的必要性を無視し、意識生活に影響を及ぼす人間のあらゆる共同生活と教育とが同一であるということを無視して、現実離れした事柄についての知識を知らせることと教育とを同一視し、言語記号を通して学問を伝ええること、つまり読み書き能力の習得と教育とを同一視することになるのである。

例えば、進学校において「偏差値の高い学校に生徒を合格させるための勉強」を教師が敢行し、生徒がその目標と同様の物を持っていたとしても「共有」は起きえる。しかしながら、「教育は共同生活に参加するためのもの」というデューイの考えではこれでは足りないということが分かる。やや気になった点としては、研究とはどういう位置づけにあるのかと思う。例えば基礎研究は「社会の何の役に立つか分からない」ものがほとんどだ。また労働にしても、作業が細分化されている現代において「自分の仕事が何に役立つのか」を持てる人は少ないのかもしてない。松下幸之助が自社で電球を作ることは「田舎の学生の勉強を助ける。」ことになると言って作業員に自らの仕事の行き着く先を教えた、その仕事の重要性を説いた逸話が合ったことを思い出したが、そのように「イメージ化する」事が常に可能なわけでもないと思う。もちろん、意識的に気をつけるだけでほとんどの場合できるかもしてないが、世の中における人間が行う全ての作品が果たして「現実離れしない」物なのかは疑問。よくわからないので誰かと議論したくなる。