数日中に公務員対策市場を変えるって話
あと数日で…
ウェブでコンテンツを作成し普及させることがかなり楽になった昨今、より多くのコンテンツが無料化や格安化の道を進むことだろう。そんななか、知識に関するものはどうしても高止まりする傾向にあると感じる。
この数年間自分が感じてきたことは
「もし自分が提供者であればもっともっと安く提供してもいいと思えるものが、高く出回っている」
という現実だ。そう、試験対策の教材に関して。何が問題かというと、例えば国家総合職経済区分の二次試験の解説なんて何処にも転がってない。紙ベースの教材すら存在が怪しいし、あっても誰が作った解説かわからない。
自分の実績をひけらかすわけではないが、総合職である程度まともな席次を得たことを考えるとそういう信頼も少しはあるだろうし、数年間研究の傍で予備校の講師としても幾つか授業を担当していた経験から、
「一人で1から対策を作ることは本当に不可能だろうか?」と自分に問いかけてみた。
その答えは「可能」であって、しかも僕は営利目的で生きられない人間で、
この人生に価値を求めるのであれば、やはり困っている人の役に立ちたい。
いいコンテンツを今までにないくらいやすい形で、というかいっそほぼ全て無料でだしていいんじゃないか?そう思って公務員試験の過去問解説動画を作成しまとめたサイトを構築している。このサイトがおそらくあと数日で世の中にリリースできる手はずが整ってきた。
どれだけの人が「価値がある」と感じるかはわからないが、まずは得意な数的処理を
国家総合職・国税専門官・国家一般職
の3試験について解いて、解説動画を提供していこうと考えている。もちろん全部無料で。
需要があれば経済学の過去問解説動画とかもやっていきたい。
やっぱり人に教えることが自分は好きなようで、その中でこそ自分も学ぶ意欲が高まるらしい。だから今すごく楽しく新しいことを学べている。
1年後の8月に公務員試験市場が変わっている未来を想像しながら、
もっと多くの受験者が独学受験者が拠り所となれるいいコンテンツ・サイト・そしてコミュニティー形成をしていきたい。
システム上の確認とデバックさえできれば、あと数日で公開できる。
この夏はほとんどこの構築に飛んで全然休みとかなかったけど、すごく充実してた。
もしかすると人生で一番充実した夏かもしれない。
楽しい。
国家総合職教養区分・一次試験対策について
試験の細かい内容
一次試験では基礎能力1, 2の二つの科目を択一問題で解くことになる。
基礎能力1の構成
- 文章読解3問
- 英長文読解5問
- 数的処理16問
となっており、すべて知能問題である。特に数的処理の比重が2/3の締めることから「理系」が特に有利になる試験といっても過言ではない。しかし、一方でTOEICなどの公式の英語試験でのスコア提出をすれば最終合格点に加点されることから英語が得意な人も試験場有利だろう。
基礎能力2の構成
たとえば平成26年度の内訳は以下のようなものであった。
- 時事 6問 : 大学受験の公民レベルの内容
- 数学 2問 : 方程式に関する問題が頻出
- 物理 2問 : 大学受験の中でも基礎的な内容
- 化学 2問 : 化学1の内容を押さえていれば解ける
- 生物 2問 : 生物1の内容で解ける
- 地学 1問
- 西洋思想関連 2問
- 日本史 2問
- 世界史 2問
- 地理 2問
- 公民 4問
- 経済関連 3問
ここで、教養試験場最も有利なのは「国公立大学受験をし、経済学部または法学部に入った人」といえる。なぜなら5教科7科目の幅広い試験内容をすでに一度勉強してありそれにかなり近い形での出題であるとともに(個々の科目の問題レベルは結構低い), 時事・公民の問題は行政や経済関連のトピックが頻出であるからだ。
さて、まずは一次試験を通過しないと次にいけないが、この一次試験が10倍という高倍率であり、もし基礎能力2を全てやっていたらコスパが悪い。
それよりはか知能問題でどれくらい取れるかの腕試しとして使うくらいがちょうどいい。
また、大学の学部が経済や法ではないが受験を目指しており、大学受験で勉強を頑張ったと思える人はサクッと合格してしまえるだろう。
逆に、一からのスタートで本気でこの試験の合格を目指すのは得策ではない。知識問題の対策は一冊読んで一問出るかどうかなので、しっかりと春の専門試験に向けて専門科目の理解を深めておいた方が合格確率は高まると言える。
特にやるべきこと
明確に二つだ
- 数的処理
- TOEIC対策
知識問題はコスパが悪いしどうせ択一なので消去法である程度当たるので、それよりも比重の大きい数的処理と、+αでか点をもらえるTOEICの対策をしっかりしておく。(もちろん英文読解の点も取れるようになる)
TOEICで730点, 数的処理で7割を越えれば合格ラインに乗れるだろう。
そしてこれはそのまま翌年度の専門区分の重点対策になる。
昨今省庁も席次を気にせず採用を行っているので、
細かいを狙うのではなく
- 効率よく合格ラインに乗ること
- 説明会に参加して希望する省庁に入省の意志を伝えること
が最も重要かつ時間をさくべきタスクであることを肝に銘じておこう。
国家総合職教養試験の締切が間近
学部3年生が受けられる国家総合職
国家総合職の新設区分としてできた教養区分もようやく知名度が上がってきた。
いわゆる通常の試験区分である経済職や法律職では必ず専門科目が必要なのだが、こちらでは教養科目(知能問題および大学受験レベルの知識問題)で対応可能となっている。
本年度の試験は9月25日に一次試験があるがその締切があと4日に迫っている
↓下記リンク参照
http://www.jinji.go.jp/saiyo/siken/jyukennannnai/jyukennannnai_kyouyoukubunn.pdf
受験料は無料なのでぜひ来年度の国家総合職を受験予定の人は
- 本番に向けての練習になる
- 試験を受けるまでの勉強に身が入る
- 仮に一次に受かれば一気に総合職受験のリスクが減る
ということもあるので「必ず」申し込んでおこう。
さて、その教養区分に関して簡単に情報を以下にまとめておこう
教養区分の情報まとめ
試験内容
まずは試験内容だが以下を参考にしてほしい
引用元: jyukennannnai_kyouyoukubunn.pdf
合格率・難易度等
平成27年の例だと
申込者数が2456人
一次試験合格者数が232人
最終合格者数が133人
ということで、1次で約10倍, 2次で2倍ないくらいといったところでしょう。
引用元: http://www.jinji.go.jp/saiyo/siken/27_jissijyoukyou.pdf
しかしながら、ほとんどの受験生は教養区分専用の対策などしていないというのが実情です。元から地力のあるメンバーが受けて受かる、そういった使い方をしています。
対策方法
しかしながらがっつり対策しようとすればどうすればいいのか?
それに関して明日以降この記事に追記する形で載せていきたいと思います。
追記:
同じことならより短い時間で終わらせよう
効率化は努力の結晶だと感じる。
高校球児が熱い試合を続ける八月、彼らの熱闘を見ることは刺激になる。
一方で、その彼らの表舞台の裏側にある"努力"の部分というのは必ずしも効果的かどうか分からず、いわゆるスポ根的側面がいまだ強いように感じる。
ある目標を立てた時、「その目標を達成するため」にすることは自己暗示的な強迫観念に自分を置くことだけが道ではなく、いかに「効率的に達成するか」がキモだ。
人生経験の少ない高校生が「成功」を手に入れる初期段階として規則や強迫観念によって自分を努力することに指定することは一つの手ではある。しかし、それ以降の彼らを導くのは「いかに勝つか」を考え、改良し実践し続けることだ。
スポーツであれば怪我をしないギリギリのところで追い込まなければいけない。
だからプロの選手で一見「手を抜いている」ように見えるところに「勝つためのキモ」が潜んでいたりもする。
こういう「自分が勝つためには何が必要か」を考えている時に人間は前進していると感じる。そして、うまくいく人の要件の一つであると思う。
効率化というものは願わなければ得られないものだ。
同じ時間で得るものが多いならどんどん効率化すべきだ。
努力をすることが大事なのではない。「努力をした上で何をするか」が大事。
であれば「何か」ができるようになるのをいつにするのか。
1年後やるのか、10年後やるのか。
今やらない人が簡単に何かを投げ出して
自分が心からいいと思えることに今後挑戦する可能性は低いだろう。
勉強というのは元来娯楽だった。それが、効率化を求めるのであれば避けては通れないほど価値のあることだと人間が気付き始めて、それを発展させる人とそれを応用して生きる人が今いる。もちろんどちらもできるけども「何かを残す」ということをしなければ
知識を得るのみでは、人生は長すぎる。
今日自分は何をしたか
何を残せる手はずを整えたか。
毎日己自身に問いただして、
はっきりしない答えが返ってきた日は変わろうとしなければいけない。
停滞していいほど、人生は長くない。
2017年の公務員受験者が使えるプラットフォームを作成している話
このブログを始めたきっかけと僕のマインド
このブログを始めてから1年と7か月ほどが過ぎました。解説してからかなり早い段階で一定数の方々に見ていただき、更新をなかなかしていなかったにもかかわらず根強く記事を見て行ってくる人も多いようです。
僕がこのブログを始めた理由としては
「情報が少ない公務員対策に関してより多くの情報を与える場所を作りたい」
という思いからでした。僕自身の時間に限りがあるもののその一端は担えたかと思います。
しかし、一方で概念的な戦略や方法論を説いたところでどれほどの価値があったのかと思い始めるようにもなりました。僕は非常に公的なマインドを持っており、今最も関心があるのは教育格差に関してです。
公務員対策にしても予備校に通学しようとしたら50万円近い授業料がかかります。
そこで独学で対策せざる負えなくなる人も多いと思いますが、この状況をなんとかして改善できないか。勉強というものは一人でやるものではあるものの、
"そこにコミュニティーなり、頼れる環境なりあってもいいのではないか?"
そういう思いを持ち続けてきました。
編み出した解決策
であれば、作ってしまえばいいではないかと覚悟できたのがやっと最近になってです。
本当はビジョン自体はあったのですが、自分の環境的な制約からなかなか取り組むことが難しかったのですが、今実際に動き始めることができたので宣言しておきたいと思います。
今後、公務員試験対策にかんするオンライン講座を見ることができるウェブサイトを現在設計しています。
コンテンツとしてはまずは
- 国家一般職
- 国税専門官
- 国家総合職(一次教養 及び 専門科目 経済)
の過去問解説を中心に行っています。もしも活用してくれる人が多いようでしたら、各科目の解説動画に関しても随時アップロードしていく予定です。
2017年の試験本番までに必要と思われる講義を私、たいそんが作成していきます。
ということで、今後このブログの方でも進捗状況を随時アップしていきます。
8月中にはベータ版を公開できるかと思います。
日本の教育市場にインパクトのあることをしたいと虎視眈々と準備中。
教育が投資だとしても京大卒が専業主婦になることは社会的に無駄ではない。②
再考
おととい以下の記事を書いた。それに対して、元ブログの方からはてブをもらうと同時に自分の論に問題があることを痛感したため部分的に考え直していきたいところが出てきた。
断っておくが、僕はせらまよさんの以下の記事
を読んだ上でなお考え続けている。これはあくまでも誰かを擁護したいとかそういう意図があるのでもなく、単純に自分の中に浮かんだ疑問に関して深掘りしていきたい。それだけの話。
さて、「京大卒・専業主婦」せらまよさんから先の記事にはてブをいただいた。
実は今までいただいたこと零細ブログ運営者なので、純粋に感謝した。
それはさておき、そのコメントに
子供を産まなければ意味がないというプレッシャーにつながってしまった
とあり、「しまった」と思った。他の人のコメントでも
この手の論調、じゃあ子供産まない専業主婦の価値は低いの?って思ってしまう。子供って望めば必ず得られるものではないのに。
子供の存在を自明としすぎる論調
生む機械が高性能になってよかったね、みたいな?
とあり、自分があまりにも「子供と親の関係性の中に価値が存在する」こと、そして「子供がいて当然」であるかのような文章を書いていたことに気づいた。
これは、一般論を行う上で自分の意図しないところであったので、今一度その点を考え直したい。といっても自分が一度書いた文章を修正すると何かに逃げている気になるのでこうやって新たに記事を作成することにした。
なぜ「子供の存在」を仮定したのか
一般論に入る前に個人的視点の上でなぜ子供の仮定をしてしまったのかについて考えてみたい。前回の文章を書いた時点で、途中までは確かに僕は一般論の話をしているつもりであった。しかし、まとめる段階において個人的感情を優先させてしまったことが最大の過ちだったと思う。
僕には小さいとき父がいなかった。この実体験が自分の価値観に強烈に影響している。
それが故に、自分は「親と子の時間」について人一倍敏感であるし、自分の人生の時間はできるだけ長く子供と過ごすことに使いたいと考えている。それを他者に押し付けてしまった。それが最大の過ちだ。
ようは、ぼくはせらまよさんの立場に立って考えたのではなく、いつのまにか「自分が専業主婦であるならば」ということを考えていた。
子供がいない専業主婦の価値
ここにきて考えるべきは子供がいない専業主婦の価値だろう。ぼくはこの点を完全に無視した議論をした。確かに自分は「最大のリターン」として子供に対する影響というものを掲げ続ける。しかし、子供がいなくとも「良き友人である」ことが社会的価値だと付け加えたい。つまりは周囲の人間関係の中で、ママ友や親族の中で自分が「教養ある一個人」であることが他の人の模範となるし、そういう存在に他の家族がアクセスできることでその人の教養が「伝染」していく。
だから前回主張した
高等教育を耐え切った時点で投資としての教育の目的はほぼ達成されている
という持論は変わらない。
その他の意見に対する反応
さて、正直ここまででいいのだけれども他のコメントで気になるものがあったので一つずつ考えていきたい。
①専業主婦を強く勧めているわけではない
生む機械が高性能になってよかったね、みたいな?無駄で結構と私は思うけど。
このコメントに対して感じたことは、確かにぼくは子供の存在を仮定してしまったが、女性に限って家事育児に専念すべきと言ったつもりは全くないということだ。あくまでも、「専業主婦であるなら」というところに自分が「子供がいる」という強い仮定を置いしまったのが発端であることは認めるが、ややて厳しい物言いだなと感じた。
また、無駄で結構だとはぼくも思う。ただ、本当に無駄なのかどうかという点に関して考える余裕があってもいいと思い記事を書いた。
②"のみ"というのは強すぎではないか
学問史上主義者なので「次世代への投資」は「次世代を担う研究者の発生」のみが本来の意味でのリターンだと思っている。
おそらくコメントを読むにぼく同様に研究者なんだと勝手に感じた。これに関して、研究者の発生が次世代への投資の第一目的であるならば研究者にならなければ他の人は「不良債権」になるということだろうか。という印象を受けた。
もちろん「学問至上主義者」であるらしいのでそうだろうけど必ずしも新しい知見が「研究室」の中や「研究者」の肩書を持つものからしか生まれたというわけではないことをどう説明するのだろうか。
③自分が幸せなら他者評価は関係ない?
コメントでも何人かの方が言及していたし、今回の話への一般的なメッセージとして「自分が幸せかどうかが大事」という人が多くいた。だから他者評価なんか気にするなと。
これは無理でしょ。
というのも、別に他者評価が問題なのではなく、
「他者評価が間違っていることを自分が理解し納得できているかどうか」
が自分の幸福に大きく影響するわけで、それを
「他人が何言っても関係ないよ」
というのとは全く別次元の話だからだ。
つまりは他人がたとえ「お前は貢献していない」といわれたときに
「お前の意見なんかクソくらえ」と無視するのと
「自分は明らかに貢献している箇所があるのにそれを見落としているのはあなたの方」
と思うのでは天地雲泥の差があるということ。
だから、他者批判を受けたときに「考え直す」こと、「それをどう自分に説明するのか」ということを行うのは非常に有意義なことだし、それを
「自分が幸せならいいんだよ」
という甘い言葉で思考停止に導くのは、たとえ共感や慰めであっても疑問が残る対応だと感じる。
教育が投資だとしても京大卒が専業主婦になることは社会的に無駄ではない。
記事を書こうとした背景
「京大出て専業主婦なんてもったいない」(略)というブログがこの数日Twitter上を騒がせている。
本文自体に関しては、いわゆる愚痴の部類で忍野メメが「いいことでもあったのかい」とでもいいそうな文章だ。おそらく想定以上の反響であったことだと思う。
それに対して、東大文学部卒の女性のブログが更新された。
つまり、「承認欲求・他者評価によらず自分の人生を謳歌しろ。自分が真にやりたいことに時間を割くべき。」ということを言っていて、その上でタイトルを見返すと「もったいない」ものは謳歌していないこと。という風に読んで取れる。これは京大卒の方への同意文だろう。彼女がもったいなくはないことを行っていることを述べている印象だ。
さて、それに対して以下のブログを見かけたのが今日だった。
印象に残ったところを引用させてもらう。
教育を何だと思ってんの?
なんで国は回収出来もしない遊びでやってくる大学生のためにお金使わなきゃいけないの?
ボランティアじゃねーんだぞ?
おかしいだろ。
追記の部分に関して
(本文にも専業主婦への投資が失敗だなんて書いてないのは読んでもらえればわかると思う)
専業主婦にだっていろいろあるしさ。大家族を切り盛りするにはそれは専業主婦としての能力が必要だろうし。
家庭として構成員が家事、育児を担って他の構成員が仕事に集中するという役割分業はメリットも大きいだろうと思う。
(自分は、労働する親の姿を見せることこそが最高の教育だと思っているけど)
国や親に教育を受けさせてもらった恩恵に対しては、感謝の念があってしかるべきだと思うし、
与えられた恩恵は返すように努めるべきだと思っている。
教育を受けられたことに感謝しながら、社会に貢献するように努めるのって、そんなにおかしいか?
そんなに社会主義的か?ふつうのコトだろ、受けた恩を返すのは。
まぁでも、
かなり多く引用してしまったが、できるだけ元の書いた人の意見が見えるようにしておいた方がいいと思った。できれば元ブログを一度確認してもらえると幸いだが、僕が読んだ上では「社会貢献」「自分に投資してくれたことへの感謝」っていうあたりがキーワードのように感じた。
ここにきて、僕は少し自分の思うことをまとめておこうかなと感じた。
教育は投資か?
さて、まずこの問いから始めよう。
国家が費用を割いてお金を使うとき、それは投資なのだろうか?必ずしもそうとは言えないだろう。今の日本でもっとも支出割合が多い項目である社会保障の恩恵をもっとも受けているのは高齢者だ。言い方は悪くなるけども、未来への投資とは言えないと思う。これらはセーフティーネットとしての側面が強く、その支出により国が何かのリターンを要求するものとは言えない。あえて言うのであれば「国民の効用」をあげることだろう。
では教育はどうだろうか? 投資だろうか?まず義務教育までにおいてはやはり投資というよりもセーフティーネット的な側面が強いと思う。もしも投資であるならば以前この国において飛び級制度が導入されていないことに疑問がすぐ湧く。というと高等教育からが問題になるだろう。先のブログの「大学に行けて当たり前だと思ってるんじゃないか」というようなことを言っている。高等教育は投資的な側面が強くなるのだろうか。現状、奨学金というなの学生ローン問題が関わってくるのもこのあたりが問題だからだ。
「大学は学びたくなければ行かなくてもいい」というアカデミックさと
「学力のシグナルとして学歴として利用する」というインセンティブのせめぎ合いだ。
個人的な価値観によれば高校生の段階で「大学に行った方がシグナルが働く」という考えを持つ学生が多いだろう。だから借金してでも大学に行く。一方で、遊んでばかりいる学生を見て「何のために大学に来たんだ勉強しろ」という人もいる。ここで個人的合理性と社会合理性が矛盾するという経済学の考えが働いてくることがわかる。
ここで問題なのは、あくまでも大学・国立とはいっても教育にはセーフティーネットとしての役割があるということだ。才能とやる気に恵まれたものが、望めば教育を受ける機会が与えられている。そういうことだ。
教育は必ずしも投資ではない。でも、確かに
教育を何だと思ってんの?
という言葉には一理ある。これを見過ごすこともできない。では、投資としての教育を政府が行っているとして、その目指すべきところはどうか。そのとき専業主婦とはどういう立ち位置に来るのか。僕はそれを考えてみたくなった。
何がリターンか?
あくまでもセーフティーネットを無視したうえで(というかその側面を除いたうえで)、投資のリターンとしていくつか候補があるが、僕が思いつく区分としては
- 研究成果
- GDP
- 文明
がある。それぞれについて考えてみたい。
Return 1 : 研究成果
我が国の研究業績を上げるために教育を投資として行っているとする。するとこれは研究分野における国際競争力の向上を意図していることになるのだろう。これが「次世代への投資」というには「日本にはいい研究者が多いために、そのブレインが次代への財産となる。」つまり、高等教育を行える環境を存続させることがリターンとなる。
しかし、それに対して国が本腰とは思えない。博士課程進学者の一部には学振と呼ばれる特別研究員のポジションが与えられるが、20%未満の在学者しかその恩恵には預かれない。もしも高度な研究をできる環境を与えたいのであれば、大学進学への投資以上にこの博士課程進学に対する投資を増やせばいいことになる。しかしそれをやっていない。これは、より重要なのはより多くの学生が「大学における高等教育にアクセスすること」だと国が想定していることの裏返しだろう。
要はより高等な学問ができる国にしたいなら大学生の数を減らして院生により米国に並ぶ環境(研究者としてのポジションを与え、給与も払う)ことのほうがいいわけ。でもそんなこと言うと批判がくるだろう。
「より多くの人が教育を受けるべきだ」ってね。だから、この投資先はあくまでも国の分配先の一部であって最優先事項ではない。
Return 2: GDP
Gross Domestic Product, 要は国の国富をはかる指標だ。これを大きくすれば「経済的に」豊かな国ということになる。教育はそれに対する投資たり得るだろうか?
国が予算を割いて追加的にある個人に教育を与えるケースを考える。
それは、その教育を受けなければ
「歴史的発見をし産業を革命するような人材」
「起業家として社会を牽引する人材」
だろうか?その確率は限りなく低いだろう。もしそのようながくせいであれば、すでに給付の奨学金などを手に入れている可能性のほうが高い。スターを育てない投資であれば昨今の世の中、むしろ高卒のほうが使える人材になるだろう。
簿記などの資格も、大学の時なんとなく取ろうとするより働きながら必要に迫られてとるほうが「社会的価値が高い」といえるのではないか?
教育に投資をしてもGDPに大きな影響はあるのか。もちろん、いまの教育を全てやめてしまえば影響はあるだろうが、その中に入った人はGDPのためにやれることをやるべきなのか。違うだろう。
Return 3: 文明
Last but not leastという言葉が好きだ。最後に持ってきたこれこそが僕の現在持つ答え。教育が投資であるとすれば、それは文明進歩のためのものである。
文明というとなんかすごく抽象的でふわふわしたものに思える。が、ここではあえてかなり限定した言葉で文明を近似したい。教養だ。
より高い教養を持つ人々を育てること。これが教育投資のリターンではないかと思う。
これの集合体として、文明の進歩があるというイメージだ。
目には見えないが、しかし明らかに50年前と今では教育の質に変化がある。
コンピュータ、プログラミングスキルなどは一昔前では存在すらしなかった。
現在ではそれが効率化のために活用されているが、人口言語として自然言語を再認識するのはいままでにない教養の引き上げになる。自然言語で理解できなかったものが、人工言語になれば理解できてくることもあるだろう。
子供の教育水準に驚くほど影響を与えるものは何と言っても「親の学歴」といえるだろう。より正しくは「親の教養水準」だ。幼い頃に最も影響を受ける存在であるところのおやの教養水準が低いなかで進学し、東京に出て「貴族の生まれかよ」っていう人とめぐり合う。そのギャップは東大・京大の門を叩いた人なら味わうところだろう。
親の教養水準が高いと「子供の教養水準が上がる」ことがより期待できる。僕はここに最大のリターンが存在するのではないかと考えている。そして、これこそが教育の投資の本義だと暫定的に考えている。
専業主婦は無駄か?
もうお分かりだろうが、無駄どころか大正解である。
京大出身の母を持った子供は、親から学ぶことも多ければ専業主婦であるからこそ学ぶ機会も多い。子供がより教養ある人間になる可能性が高くなる。(あくまでもリターンは総和なのでもちろん個別にはブレがあってもいい。)
もし、残念なことがあるとすれば、母親が「京大卒のくせに専業主婦なんかして…」という心ない言葉に「無駄な」コンプレックスを感じて、それが共感として子供に伝染してしまうことにある。
それよりも、「音楽の話をするときに細部に生きた知識を与えてくれる母」の存在を、子供が30歳になるときにどれほど感謝しその教養水準の高さに責任感が芽生えるか、僕は簡単に想像できる。
だから、主張したい。
高等教育を耐え切った時点で、教育の目指す投資のリターンはほぼ達成されている。
と。
この国の人は責任を問うが、僕はそれでは文明は前に進まないと感じている。
実行していくことは必要だし、求められている。しかしその形は多彩。
大事なことは、すべての人が愛情を持って子供を育てる社会。
そんな文明を心待ちにしている。
追記: