国家総合職教養試験の締切が間近
学部3年生が受けられる国家総合職
国家総合職の新設区分としてできた教養区分もようやく知名度が上がってきた。
いわゆる通常の試験区分である経済職や法律職では必ず専門科目が必要なのだが、こちらでは教養科目(知能問題および大学受験レベルの知識問題)で対応可能となっている。
本年度の試験は9月25日に一次試験があるがその締切があと4日に迫っている
↓下記リンク参照
http://www.jinji.go.jp/saiyo/siken/jyukennannnai/jyukennannnai_kyouyoukubunn.pdf
受験料は無料なのでぜひ来年度の国家総合職を受験予定の人は
- 本番に向けての練習になる
- 試験を受けるまでの勉強に身が入る
- 仮に一次に受かれば一気に総合職受験のリスクが減る
ということもあるので「必ず」申し込んでおこう。
さて、その教養区分に関して簡単に情報を以下にまとめておこう
教養区分の情報まとめ
試験内容
まずは試験内容だが以下を参考にしてほしい
引用元: jyukennannnai_kyouyoukubunn.pdf
合格率・難易度等
平成27年の例だと
申込者数が2456人
一次試験合格者数が232人
最終合格者数が133人
ということで、1次で約10倍, 2次で2倍ないくらいといったところでしょう。
引用元: http://www.jinji.go.jp/saiyo/siken/27_jissijyoukyou.pdf
しかしながら、ほとんどの受験生は教養区分専用の対策などしていないというのが実情です。元から地力のあるメンバーが受けて受かる、そういった使い方をしています。
対策方法
しかしながらがっつり対策しようとすればどうすればいいのか?
それに関して明日以降この記事に追記する形で載せていきたいと思います。
追記:
同じことならより短い時間で終わらせよう
効率化は努力の結晶だと感じる。
高校球児が熱い試合を続ける八月、彼らの熱闘を見ることは刺激になる。
一方で、その彼らの表舞台の裏側にある"努力"の部分というのは必ずしも効果的かどうか分からず、いわゆるスポ根的側面がいまだ強いように感じる。
ある目標を立てた時、「その目標を達成するため」にすることは自己暗示的な強迫観念に自分を置くことだけが道ではなく、いかに「効率的に達成するか」がキモだ。
人生経験の少ない高校生が「成功」を手に入れる初期段階として規則や強迫観念によって自分を努力することに指定することは一つの手ではある。しかし、それ以降の彼らを導くのは「いかに勝つか」を考え、改良し実践し続けることだ。
スポーツであれば怪我をしないギリギリのところで追い込まなければいけない。
だからプロの選手で一見「手を抜いている」ように見えるところに「勝つためのキモ」が潜んでいたりもする。
こういう「自分が勝つためには何が必要か」を考えている時に人間は前進していると感じる。そして、うまくいく人の要件の一つであると思う。
効率化というものは願わなければ得られないものだ。
同じ時間で得るものが多いならどんどん効率化すべきだ。
努力をすることが大事なのではない。「努力をした上で何をするか」が大事。
であれば「何か」ができるようになるのをいつにするのか。
1年後やるのか、10年後やるのか。
今やらない人が簡単に何かを投げ出して
自分が心からいいと思えることに今後挑戦する可能性は低いだろう。
勉強というのは元来娯楽だった。それが、効率化を求めるのであれば避けては通れないほど価値のあることだと人間が気付き始めて、それを発展させる人とそれを応用して生きる人が今いる。もちろんどちらもできるけども「何かを残す」ということをしなければ
知識を得るのみでは、人生は長すぎる。
今日自分は何をしたか
何を残せる手はずを整えたか。
毎日己自身に問いただして、
はっきりしない答えが返ってきた日は変わろうとしなければいけない。
停滞していいほど、人生は長くない。
2017年の公務員受験者が使えるプラットフォームを作成している話
このブログを始めたきっかけと僕のマインド
このブログを始めてから1年と7か月ほどが過ぎました。解説してからかなり早い段階で一定数の方々に見ていただき、更新をなかなかしていなかったにもかかわらず根強く記事を見て行ってくる人も多いようです。
僕がこのブログを始めた理由としては
「情報が少ない公務員対策に関してより多くの情報を与える場所を作りたい」
という思いからでした。僕自身の時間に限りがあるもののその一端は担えたかと思います。
しかし、一方で概念的な戦略や方法論を説いたところでどれほどの価値があったのかと思い始めるようにもなりました。僕は非常に公的なマインドを持っており、今最も関心があるのは教育格差に関してです。
公務員対策にしても予備校に通学しようとしたら50万円近い授業料がかかります。
そこで独学で対策せざる負えなくなる人も多いと思いますが、この状況をなんとかして改善できないか。勉強というものは一人でやるものではあるものの、
"そこにコミュニティーなり、頼れる環境なりあってもいいのではないか?"
そういう思いを持ち続けてきました。
編み出した解決策
であれば、作ってしまえばいいではないかと覚悟できたのがやっと最近になってです。
本当はビジョン自体はあったのですが、自分の環境的な制約からなかなか取り組むことが難しかったのですが、今実際に動き始めることができたので宣言しておきたいと思います。
今後、公務員試験対策にかんするオンライン講座を見ることができるウェブサイトを現在設計しています。
コンテンツとしてはまずは
- 国家一般職
- 国税専門官
- 国家総合職(一次教養 及び 専門科目 経済)
の過去問解説を中心に行っています。もしも活用してくれる人が多いようでしたら、各科目の解説動画に関しても随時アップロードしていく予定です。
2017年の試験本番までに必要と思われる講義を私、たいそんが作成していきます。
ということで、今後このブログの方でも進捗状況を随時アップしていきます。
8月中にはベータ版を公開できるかと思います。
日本の教育市場にインパクトのあることをしたいと虎視眈々と準備中。
教育が投資だとしても京大卒が専業主婦になることは社会的に無駄ではない。②
再考
おととい以下の記事を書いた。それに対して、元ブログの方からはてブをもらうと同時に自分の論に問題があることを痛感したため部分的に考え直していきたいところが出てきた。
断っておくが、僕はせらまよさんの以下の記事
を読んだ上でなお考え続けている。これはあくまでも誰かを擁護したいとかそういう意図があるのでもなく、単純に自分の中に浮かんだ疑問に関して深掘りしていきたい。それだけの話。
さて、「京大卒・専業主婦」せらまよさんから先の記事にはてブをいただいた。
実は今までいただいたこと零細ブログ運営者なので、純粋に感謝した。
それはさておき、そのコメントに
子供を産まなければ意味がないというプレッシャーにつながってしまった
とあり、「しまった」と思った。他の人のコメントでも
この手の論調、じゃあ子供産まない専業主婦の価値は低いの?って思ってしまう。子供って望めば必ず得られるものではないのに。
子供の存在を自明としすぎる論調
生む機械が高性能になってよかったね、みたいな?
とあり、自分があまりにも「子供と親の関係性の中に価値が存在する」こと、そして「子供がいて当然」であるかのような文章を書いていたことに気づいた。
これは、一般論を行う上で自分の意図しないところであったので、今一度その点を考え直したい。といっても自分が一度書いた文章を修正すると何かに逃げている気になるのでこうやって新たに記事を作成することにした。
なぜ「子供の存在」を仮定したのか
一般論に入る前に個人的視点の上でなぜ子供の仮定をしてしまったのかについて考えてみたい。前回の文章を書いた時点で、途中までは確かに僕は一般論の話をしているつもりであった。しかし、まとめる段階において個人的感情を優先させてしまったことが最大の過ちだったと思う。
僕には小さいとき父がいなかった。この実体験が自分の価値観に強烈に影響している。
それが故に、自分は「親と子の時間」について人一倍敏感であるし、自分の人生の時間はできるだけ長く子供と過ごすことに使いたいと考えている。それを他者に押し付けてしまった。それが最大の過ちだ。
ようは、ぼくはせらまよさんの立場に立って考えたのではなく、いつのまにか「自分が専業主婦であるならば」ということを考えていた。
子供がいない専業主婦の価値
ここにきて考えるべきは子供がいない専業主婦の価値だろう。ぼくはこの点を完全に無視した議論をした。確かに自分は「最大のリターン」として子供に対する影響というものを掲げ続ける。しかし、子供がいなくとも「良き友人である」ことが社会的価値だと付け加えたい。つまりは周囲の人間関係の中で、ママ友や親族の中で自分が「教養ある一個人」であることが他の人の模範となるし、そういう存在に他の家族がアクセスできることでその人の教養が「伝染」していく。
だから前回主張した
高等教育を耐え切った時点で投資としての教育の目的はほぼ達成されている
という持論は変わらない。
その他の意見に対する反応
さて、正直ここまででいいのだけれども他のコメントで気になるものがあったので一つずつ考えていきたい。
①専業主婦を強く勧めているわけではない
生む機械が高性能になってよかったね、みたいな?無駄で結構と私は思うけど。
このコメントに対して感じたことは、確かにぼくは子供の存在を仮定してしまったが、女性に限って家事育児に専念すべきと言ったつもりは全くないということだ。あくまでも、「専業主婦であるなら」というところに自分が「子供がいる」という強い仮定を置いしまったのが発端であることは認めるが、ややて厳しい物言いだなと感じた。
また、無駄で結構だとはぼくも思う。ただ、本当に無駄なのかどうかという点に関して考える余裕があってもいいと思い記事を書いた。
②"のみ"というのは強すぎではないか
学問史上主義者なので「次世代への投資」は「次世代を担う研究者の発生」のみが本来の意味でのリターンだと思っている。
おそらくコメントを読むにぼく同様に研究者なんだと勝手に感じた。これに関して、研究者の発生が次世代への投資の第一目的であるならば研究者にならなければ他の人は「不良債権」になるということだろうか。という印象を受けた。
もちろん「学問至上主義者」であるらしいのでそうだろうけど必ずしも新しい知見が「研究室」の中や「研究者」の肩書を持つものからしか生まれたというわけではないことをどう説明するのだろうか。
③自分が幸せなら他者評価は関係ない?
コメントでも何人かの方が言及していたし、今回の話への一般的なメッセージとして「自分が幸せかどうかが大事」という人が多くいた。だから他者評価なんか気にするなと。
これは無理でしょ。
というのも、別に他者評価が問題なのではなく、
「他者評価が間違っていることを自分が理解し納得できているかどうか」
が自分の幸福に大きく影響するわけで、それを
「他人が何言っても関係ないよ」
というのとは全く別次元の話だからだ。
つまりは他人がたとえ「お前は貢献していない」といわれたときに
「お前の意見なんかクソくらえ」と無視するのと
「自分は明らかに貢献している箇所があるのにそれを見落としているのはあなたの方」
と思うのでは天地雲泥の差があるということ。
だから、他者批判を受けたときに「考え直す」こと、「それをどう自分に説明するのか」ということを行うのは非常に有意義なことだし、それを
「自分が幸せならいいんだよ」
という甘い言葉で思考停止に導くのは、たとえ共感や慰めであっても疑問が残る対応だと感じる。
教育が投資だとしても京大卒が専業主婦になることは社会的に無駄ではない。
記事を書こうとした背景
「京大出て専業主婦なんてもったいない」(略)というブログがこの数日Twitter上を騒がせている。
本文自体に関しては、いわゆる愚痴の部類で忍野メメが「いいことでもあったのかい」とでもいいそうな文章だ。おそらく想定以上の反響であったことだと思う。
それに対して、東大文学部卒の女性のブログが更新された。
つまり、「承認欲求・他者評価によらず自分の人生を謳歌しろ。自分が真にやりたいことに時間を割くべき。」ということを言っていて、その上でタイトルを見返すと「もったいない」ものは謳歌していないこと。という風に読んで取れる。これは京大卒の方への同意文だろう。彼女がもったいなくはないことを行っていることを述べている印象だ。
さて、それに対して以下のブログを見かけたのが今日だった。
印象に残ったところを引用させてもらう。
教育を何だと思ってんの?
なんで国は回収出来もしない遊びでやってくる大学生のためにお金使わなきゃいけないの?
ボランティアじゃねーんだぞ?
おかしいだろ。
追記の部分に関して
(本文にも専業主婦への投資が失敗だなんて書いてないのは読んでもらえればわかると思う)
専業主婦にだっていろいろあるしさ。大家族を切り盛りするにはそれは専業主婦としての能力が必要だろうし。
家庭として構成員が家事、育児を担って他の構成員が仕事に集中するという役割分業はメリットも大きいだろうと思う。
(自分は、労働する親の姿を見せることこそが最高の教育だと思っているけど)
国や親に教育を受けさせてもらった恩恵に対しては、感謝の念があってしかるべきだと思うし、
与えられた恩恵は返すように努めるべきだと思っている。
教育を受けられたことに感謝しながら、社会に貢献するように努めるのって、そんなにおかしいか?
そんなに社会主義的か?ふつうのコトだろ、受けた恩を返すのは。
まぁでも、
かなり多く引用してしまったが、できるだけ元の書いた人の意見が見えるようにしておいた方がいいと思った。できれば元ブログを一度確認してもらえると幸いだが、僕が読んだ上では「社会貢献」「自分に投資してくれたことへの感謝」っていうあたりがキーワードのように感じた。
ここにきて、僕は少し自分の思うことをまとめておこうかなと感じた。
教育は投資か?
さて、まずこの問いから始めよう。
国家が費用を割いてお金を使うとき、それは投資なのだろうか?必ずしもそうとは言えないだろう。今の日本でもっとも支出割合が多い項目である社会保障の恩恵をもっとも受けているのは高齢者だ。言い方は悪くなるけども、未来への投資とは言えないと思う。これらはセーフティーネットとしての側面が強く、その支出により国が何かのリターンを要求するものとは言えない。あえて言うのであれば「国民の効用」をあげることだろう。
では教育はどうだろうか? 投資だろうか?まず義務教育までにおいてはやはり投資というよりもセーフティーネット的な側面が強いと思う。もしも投資であるならば以前この国において飛び級制度が導入されていないことに疑問がすぐ湧く。というと高等教育からが問題になるだろう。先のブログの「大学に行けて当たり前だと思ってるんじゃないか」というようなことを言っている。高等教育は投資的な側面が強くなるのだろうか。現状、奨学金というなの学生ローン問題が関わってくるのもこのあたりが問題だからだ。
「大学は学びたくなければ行かなくてもいい」というアカデミックさと
「学力のシグナルとして学歴として利用する」というインセンティブのせめぎ合いだ。
個人的な価値観によれば高校生の段階で「大学に行った方がシグナルが働く」という考えを持つ学生が多いだろう。だから借金してでも大学に行く。一方で、遊んでばかりいる学生を見て「何のために大学に来たんだ勉強しろ」という人もいる。ここで個人的合理性と社会合理性が矛盾するという経済学の考えが働いてくることがわかる。
ここで問題なのは、あくまでも大学・国立とはいっても教育にはセーフティーネットとしての役割があるということだ。才能とやる気に恵まれたものが、望めば教育を受ける機会が与えられている。そういうことだ。
教育は必ずしも投資ではない。でも、確かに
教育を何だと思ってんの?
という言葉には一理ある。これを見過ごすこともできない。では、投資としての教育を政府が行っているとして、その目指すべきところはどうか。そのとき専業主婦とはどういう立ち位置に来るのか。僕はそれを考えてみたくなった。
何がリターンか?
あくまでもセーフティーネットを無視したうえで(というかその側面を除いたうえで)、投資のリターンとしていくつか候補があるが、僕が思いつく区分としては
- 研究成果
- GDP
- 文明
がある。それぞれについて考えてみたい。
Return 1 : 研究成果
我が国の研究業績を上げるために教育を投資として行っているとする。するとこれは研究分野における国際競争力の向上を意図していることになるのだろう。これが「次世代への投資」というには「日本にはいい研究者が多いために、そのブレインが次代への財産となる。」つまり、高等教育を行える環境を存続させることがリターンとなる。
しかし、それに対して国が本腰とは思えない。博士課程進学者の一部には学振と呼ばれる特別研究員のポジションが与えられるが、20%未満の在学者しかその恩恵には預かれない。もしも高度な研究をできる環境を与えたいのであれば、大学進学への投資以上にこの博士課程進学に対する投資を増やせばいいことになる。しかしそれをやっていない。これは、より重要なのはより多くの学生が「大学における高等教育にアクセスすること」だと国が想定していることの裏返しだろう。
要はより高等な学問ができる国にしたいなら大学生の数を減らして院生により米国に並ぶ環境(研究者としてのポジションを与え、給与も払う)ことのほうがいいわけ。でもそんなこと言うと批判がくるだろう。
「より多くの人が教育を受けるべきだ」ってね。だから、この投資先はあくまでも国の分配先の一部であって最優先事項ではない。
Return 2: GDP
Gross Domestic Product, 要は国の国富をはかる指標だ。これを大きくすれば「経済的に」豊かな国ということになる。教育はそれに対する投資たり得るだろうか?
国が予算を割いて追加的にある個人に教育を与えるケースを考える。
それは、その教育を受けなければ
「歴史的発見をし産業を革命するような人材」
「起業家として社会を牽引する人材」
だろうか?その確率は限りなく低いだろう。もしそのようながくせいであれば、すでに給付の奨学金などを手に入れている可能性のほうが高い。スターを育てない投資であれば昨今の世の中、むしろ高卒のほうが使える人材になるだろう。
簿記などの資格も、大学の時なんとなく取ろうとするより働きながら必要に迫られてとるほうが「社会的価値が高い」といえるのではないか?
教育に投資をしてもGDPに大きな影響はあるのか。もちろん、いまの教育を全てやめてしまえば影響はあるだろうが、その中に入った人はGDPのためにやれることをやるべきなのか。違うだろう。
Return 3: 文明
Last but not leastという言葉が好きだ。最後に持ってきたこれこそが僕の現在持つ答え。教育が投資であるとすれば、それは文明進歩のためのものである。
文明というとなんかすごく抽象的でふわふわしたものに思える。が、ここではあえてかなり限定した言葉で文明を近似したい。教養だ。
より高い教養を持つ人々を育てること。これが教育投資のリターンではないかと思う。
これの集合体として、文明の進歩があるというイメージだ。
目には見えないが、しかし明らかに50年前と今では教育の質に変化がある。
コンピュータ、プログラミングスキルなどは一昔前では存在すらしなかった。
現在ではそれが効率化のために活用されているが、人口言語として自然言語を再認識するのはいままでにない教養の引き上げになる。自然言語で理解できなかったものが、人工言語になれば理解できてくることもあるだろう。
子供の教育水準に驚くほど影響を与えるものは何と言っても「親の学歴」といえるだろう。より正しくは「親の教養水準」だ。幼い頃に最も影響を受ける存在であるところのおやの教養水準が低いなかで進学し、東京に出て「貴族の生まれかよ」っていう人とめぐり合う。そのギャップは東大・京大の門を叩いた人なら味わうところだろう。
親の教養水準が高いと「子供の教養水準が上がる」ことがより期待できる。僕はここに最大のリターンが存在するのではないかと考えている。そして、これこそが教育の投資の本義だと暫定的に考えている。
専業主婦は無駄か?
もうお分かりだろうが、無駄どころか大正解である。
京大出身の母を持った子供は、親から学ぶことも多ければ専業主婦であるからこそ学ぶ機会も多い。子供がより教養ある人間になる可能性が高くなる。(あくまでもリターンは総和なのでもちろん個別にはブレがあってもいい。)
もし、残念なことがあるとすれば、母親が「京大卒のくせに専業主婦なんかして…」という心ない言葉に「無駄な」コンプレックスを感じて、それが共感として子供に伝染してしまうことにある。
それよりも、「音楽の話をするときに細部に生きた知識を与えてくれる母」の存在を、子供が30歳になるときにどれほど感謝しその教養水準の高さに責任感が芽生えるか、僕は簡単に想像できる。
だから、主張したい。
高等教育を耐え切った時点で、教育の目指す投資のリターンはほぼ達成されている。
と。
この国の人は責任を問うが、僕はそれでは文明は前に進まないと感じている。
実行していくことは必要だし、求められている。しかしその形は多彩。
大事なことは、すべての人が愛情を持って子供を育てる社会。
そんな文明を心待ちにしている。
追記:
尊敬できる人
教育に興味を持ち始めたのは、多分高校生2年生の時だと思う。受験に向けてとか他人と比較じゃなくて、知らないことを知りたいと思い始めた時だ。当時も今も、あまり目上の人間に対して尊敬することが少ない。というよりも、尊敬をすることはどこかで相手にかなわないと認めることだと思っている。簡単に他人を尊敬できない性格をしている以上、それでも尊敬できる人間に出会いたいとは常々感じていた。しかし、少なくとも高校時代の自分にとって尊敬に値する人はいなかったと思う。自分は何によって他者を尊敬するのかという基準は、おそらくこの頃うっすらと理解しつつあったのだと思う。人を尊敬するには何が必要なのか考えてみると、きっとそれは能力であったり、性格であったりと答える人がいると思うけども、「こういう人を自分は尊敬する」って言うのが少し曖昧なのが気に食わなかった。
能力のみに関して人を尊敬できない経験があった。自分の所属していた部活の顧問は現役時代日本トップクラスのアスリートで輝かしい結果を残していた。しかし、僕はその顧問を尊敬できなかった。彼は言っていることは頻繁に変わる。「速くなるには」のメソッドに関して、2ヶ月ごとのペースで準備運動が変わるほどだった。おそらくは新しい情報や方法を調べて積極的に練習内容に導入しようとしていたのだろう。その彼の努力は理解する。だが、度重なる変更は彼の努力への評価よりも「どうせまたやり方が変わる」という不信感・懐疑心を助長させる影響の方が強かっただろう。結局部員たちは彼のメニューを「こなす」だけで終わり、各自の自主練に重きを置いていた。
同じく高校生の時、当時の自分より英語・数学共に非常に堪能な友人がいた。京都大学を目指しており、相応の学力もあった。しかし、僕はその同級生を尊敬できなかった。彼は他人を試す癖があった。勉強ができるかどうかで値踏みするような質問を誰にでもしていたと思う。難しい参考書を使用していることを鼻にかけ、難しい英単語を知っていることを誇らしげに自慢していた。だから僕は、確かに彼は頭が良かったが賢いと感じたことが一度もなかった。
能力が尊敬に全く関係がないわけでもないが、能力が高くなくてもそれに近い経験をしたことがあった。僕の高校では定期テスト一週間前からは部活動が休止となるテスト準備期間があった。当時僕は自主的に放課後教室に残ってテストで赤点を回避したいという友人に勉強を教えていたのだが、2年生の秋にいつもはそれほど勉強しない友人が「つきっきりで教えて欲しい」といってきたことがあった。どうやら部活内でトラブルがあり部活動が無期限休止になっており、学校から「次のテストで部員全員が赤点をとらなければ反省の意を汲んで再開してもいい」と言っているらしい。なんか漫画の話みたいだけど、本当にこういうことあるんだなと思いながら教えていた。
控えめに言って彼は真面目な方ではない。どちらかといえばやんちゃな方だった。授業中私語も多かったし、部活にすべてをかけていたようにみえた。しかし、だからこそ、この時の彼の学習に対する情熱は凄まじかった。高校の下校時刻は18:30だったけども、彼は放課後僕に質問する以外は本当に机にかじりついて勉強していた。本当はいけないことだとは思うけども、19:00になっても二人で教室に隠れて残っていた。というよりも、実は彼が集中しすぎていて時間に気づかず、僕はそんな彼の集中を切らすことの方がよっぽど申し訳なく思い一緒になって時間を過ぎて残っていた。
定期テストで彼は一科目で赤点を取った。彼だけが部員の中でとってしまったようだった。同じクラスの同じ部の友人から彼が罵られているところに遭遇した。僕はその部活に一切関係がなかったけども、彼の努力に対して自分が言わなければいけなかったことがある。彼は悪くないということだ。
その一週間の彼の勉強に対する情熱は、本当に素晴らしかった。その情熱を持って、たかが定期テストで赤点を回避することができなかったのは間違いなく教えていた僕の責任だと思った。自分の教え下手をこの時ほど恨んだことはなかったけども、本当にこの時の彼の姿勢に僕は「感動」した。
僕は感動をしたが、尊敬まではしなかったと思う。多分その理由は「僕にとって達成することが困難」なことを彼がしていたわけではないからだと思う。だから、僕が尊敬するためには能力はやはり重要なのだと感じた。高い能力によらないことは姿勢に感動することはあっても尊敬とまではいかない。
そう。僕が尊敬するには少なくとも「能力と姿勢」が必要であることを知った。
しかし、それであれば部活の顧問は有していたはずだからまだ足りない。
このピースを埋めるのに僕はかなりの時間を必要としたと思う。
大学生活が過ぎる中でもそれが腑に落ちる経験がなかった。たくさんのいい人に出会ってたくさん感化されてきたけども、「尊敬」が遠かった。
思えば、ここまでの経験で能力を持っているのに尊敬できない人たちに決定的に足りなかったものは「自分の能力をさらに向上させよう」というのが薄い印象を受けていたからだと思う。すでに得た能力を元に他人に教えるのみで、自分自身が前に前に進んでいる印象がなかった。
「尊敬すること」を手に入れたのは、大学院に入って少し経った頃だと思う。一つ上の先輩に「能力・姿勢」共に優れた人がいた。この人を僕はいつしか心から尊敬するようになっていた。なぜか。彼には哲学があった。というと大袈裟かもしれないし語弊を招くかもしれない。訂正すると、彼は自分の行動基準・モチベーションの在り処を知っていた(と認識している)。
僕はよく迷い。よく悩む。その迷いとか悩みが5年続いていたりする。その悩みにひきづられて身動きが取れない時もある。そんな自分からして、その先輩はやはり悩みというものがあるであろう中で「前を向く方法」を知っていた。それがモチベーションを把握することに他ならなかった。
彼は非常に合理的だし、行動力がある。彼は自分の「考え」にかんしてぶれないのではなく、「前に進む」という点に対してぶれない。ここがすごく心地よかった。
考えに関してぶれないということはともすれば他人の意見を聞かないことにつながる。やはりそれは魅力がなくなる。だけども、前に進むというために彼は本当に他人の意見に耳を貸し、目的を達成することを優先する。ここまで割り切って行動できる人間も少ないと思ったけど僕は好きだ。
もちろんその人は「完璧」というわけではないだろう。というか人間完璧はありえない。その中で、そういう人間が尊敬できるのかを教えてくれたのが彼だった。たとえ完璧でなくとも力をつけて、前を向いている。その中で後ろを振り返ったり他人と比較するのではなく、前を向き続ける人。それが僕が尊敬する人の要件だと教えてくれた。そして、それが僕が目指す人間像なんだろう。
教育庁人材バンクってボランティアが面白そう。
教育関連の話には興味があるので何かしら社会奉仕をしていきたいなぁと漠然と考えて調べているうちに、東京都庁のサイトにある「教育庁人材バンク:東京都教育委員会」というボランティアに行き着いた。
実は教育関連のボランティアというのは他にもいろいろあるんだけども、
教育庁人材バンク事業では、学習指導や部活動指導などの学校教育活動を支援していただける方の情報を、東京都の公立学校に提供しています。より多くの方の御協力を得るため、大学生や講師経験者など様々な人材を広く募っています。
のように、学校教育に実際に携われるというものは少ないように感じる。都庁が運営していてマッチングができるので信頼もできる。僕みたいに学習指導に興味がある場合はもちろんそちらの案件に行けばいいけども、部活指導の手伝いもできるのはいい。大学時代というのは割とコミュニティーに参加しないと希薄な人間関係になってしまうし、興味がわけばこういうのは是非行ってみてもいいと思う。
一方で、このアイデアは政策的にもいいなと思う。実際問題な話、教員の負担というものは大きい。授業のみならず、部活、進路、そして問題があった際にはことの対処に当たらなくてはいけない。基本的に人に褒めてもらえるというよりは不満を言われることの方が多い仕事でもあるにもかかわらず、こういった重労働をどうにかサポートしていきたいというのは僕の今後のビジョンの一つだ。
そこで、このプログラムだ。もちろん、ボランティアに来た人に100%業務をやってもらうことは不可能だし望むべくもないけども、それでも教員側の負担が減ることは間違いない。参加する方にももちろんメリットがあると感じる。例えば教員採用試験を受ける予定の大学一年生とかまず大学入ってこれやってみるといいと思う。一年間くらいやってみて「教育の現場いいな」って思えるか、それとも「こんなに大変なのか」と感じるかどうかで自分の進路選択にダイレクトにつながるはず。
教員を目指すわけでもなくてももちろん参加する意義があると思う。通常、教員免許を持った人間以外が学校教育の現場を垣間見れる機会はそう多くない。学生の視点ではなく、ある種の指導者としてみたときの学校教育の問題点を把握できれば、それもまた自分の進路ややりたいことにつながるだろう。
こういう地域コミュニティーへの参画は今後どんどん増えればいいと思う。通常であれば対価としてお金を請求するものであったとしても、「プロ」としてではなく「アマチュア」として「プロ」とともに仕事をしていく機会があってもいいと思う。
もちろんプロに対して値踏みをしたりするのは良くない。デザインとかの公募制とかっていうのが問題になるように「正当な対価を要求」することはわるいことではない。しかし、本当にそれだけで社会を作ってしまえばアメリカ式の契約社会で、それは「共同体」を形成したと言えるのかとも思う。社会制度の点で米国などに見習うべき点は多くあるし、経済学を学んで「インセンティブ」を学べば利得重視と思うけども、人間の「生きがい」も含めた利得表を考えていくべきだよね。
そこに未来ある学生がいて、彼らの手伝いの一端を担いたいという暖かい心を決して搾取の方向ではなく、フリーライドするでもなく「より良い社会」を目指して共有していく努力を僕たちは忘れるべきじゃないと思う。自分の仕事に余力があればぜひ参加していきたい。